Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【Bonus Track 4】 奥田宗宏氏の回顧録『私は音楽が好き』
■GLHと関係が深かった奥田宗宏の回顧録。
【B-1】謎の”女ビートルズ”を追っかけろ!でご紹介したNHKオールスターズ/ブルースカイ・ダンス・オーケストラの代表、奥田宗宏。渡米前のGLHについて誌名不詳の雑誌に紹介文を寄稿した、日本軽音楽界の大ベテランだった人物である。
奥田はその中で「私は彼女たちがやっと楽器を弾くようになったころから一緒に仕事をしたことがある」とGLHとの出会いを綴っている。
前回アップの【Bonus Track 3】 ある書籍に記載されていたGLH/THC情報で紹介した大庭五郎著『戦後期渡米芸能人のメディア史: ナンシー梅木とその時代』では、GLHのマネージャーに収まったダン・ソーヤーが彼女たちを音楽バンドに転向させたのが1954年と記されていた。
ということからすると、奥田とGLHが出会ったのは1954年か55年頃と思われる。
最初期のGLHを知る人物である奥田についていろいろ調べてみると、1987年に近畿日本ツーリストの肝いりで本を出版していたことが判った。書名は『私は音楽が好き』。
もしかしたら、GLHについての思い出が多少なりとも書き残されていないかと思って、先の大庭五郎教授の本と一緒に取り寄せてみた。
■さてさて、肝腎のGLHの思い出話は?
本書は、1911年に横浜で生まれた奥田の、1987年までの人生と音楽生活を回顧したもの。活動歴が長いこともあって、登場人物たちも美空ひばりからソニー・ロリンズまで、国内から海外まで多士済々、一流どころが多い。
さて、肝腎のGLHの思い出なのだが、結論から申し上げると彼女たちに関する記述はなかったのである。
しかし、誌名不詳雑誌の紹介文に記されていて、私がとても気になっていたこの一節の裏が取れたのは収穫だった。
なぜ奥田からNHKテレビ『私の秘密』という番組の話が出てきたのかと思ったら、奥田は解答者として出演していたのだ。『私は音楽が好き』のグラビアページに番組放送時の写真が掲載されていて、奥田の姿があった。
ただし、GLHが番組出演して奥田が目にした時期がいつなのかは不明である。”数年前”という言葉が気になるが、奥田が同番組に出演していた期間が解らないため隔靴掻痒なのだ。
とはいえ、上記写真については、左から二人目にナンシー梅木、四人目に今では忘れられたアメリカ人ジャズ歌手サンディ・シムスが出演していることから調べてみると、『NHK年鑑1955年版』に記録が残っていた。1955年4月か5月頃の放送だったとおもわれる。
梅木の渡米は1955年7月、シムスは55年末の紅白歌合戦を悪天候による飛行機の欠航で出場できなかったという逸話が残っていて、時期的にも合う。
■奥田が体験した、米軍基地慰問サーキットの状況とは?
残念ながら、GLHについての記録は奥田の回顧録には残っていなかった。
が、1945年日本敗戦によって戦地から内地へと戻りジャズ界に復帰した奥田が、戦後の混乱の中で経験した米軍基地慰問サーキットの思い出は、GLHが生きてきた時代や環境を識る上で貴重な証言だと思う。
なお、1947年の時点で、「進駐軍キャンプ回りで忙しい時期でもあった。」と奥田は書いている。
時期的には平和条約締結後の1952年ぐらいのことだろうか。【B-7】 The First US Visit & Forevermoreで紹介した『占領軍調達史』にある『サンデー毎日』記事の内容とリンクする逸話だ。奥田のようなAクラスのミュージシャンでも厳しい状況になっていたことがわかる。
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ということで、GLHの記録を見いだすことは出来なかったが、戦前戦中戦後を生きた著名なバンドマン、ジャズメンの記録として入手した価値はとてもあったと思う。
(了)