Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【B-4】Zippoに記された謎のナイトクラブを探れ!
■『Club Beni』ーZippoに名入れされた謎の店。
6月の半ば、Baugher氏から質問のメッセージが舞い込んできた。ちょうど青木深教授の2冊の本についてやりとりをしていた時だった。
つまりこれが探索テーマの9番目に挙げた、
9.米兵がGLHから寄贈されたGLHネーム入りのZippoライター。その片面に印されていたクラブはどんな店でどこにあったのか?
である。ー”Club Beni”。そのライターにはどんな風に名入れされているのか。Baugher氏が画像を送ってくれた。
”Club Beni”? 青木教授の著書2冊にその名前は記載されていなかった。ただ、国会図書館デジタルでは1件だけ獲物が引っ掛かってきた。その内容をBaugher氏に伝える。
Baugher氏から返信が来た。
その直後、Baugher氏からさらに続報が飛来する。
ん?"Beni basha"? メッセージとともに、英語版の古い東京観光案内パンフ『THIS WEEK in TOKYO』の画像が添付で送られてきた。そこには........。
その前に、Bill Bickel氏がどういう人物なのかをまずご紹介したい。
■貴重な記念品の持ち主、Bill Bickel氏について。
GLHのマネージャーから寄贈された記念品をいまも大切に保管しているWilliam "Bill" Bickel氏。喜ばしいことに今もご健在である。
Baugher氏の話では、Bickel氏は1950年代末から1960年代にかけてアメリカ空軍の軍人として日本に赴任した。その間、彼はGLHのステージを何度も観たそうだ。それだけ熱烈なファンだったのだろう。そしてGLHの事務所にもよく足を運んでいたという。
アメリカ陸軍海軍空軍の3軍では、それぞれ将校・下士官・一兵卒の各階級ごとに娯楽用のクラブが設置・運営されていた。クラブではメンバーから運営委員が選ばれて、施設や資金の管理や芸能事務所との交渉にあたった。Bickel氏の当時の階級が判らないが、空軍の一般兵士用施設「Airman’s Club」の出演交渉担当だったのかも知れない。だからGLHのメンバーやマネージャーとも懇意になれたと察している。
さて、そのBickel氏に寄贈されたライターに名入れがあった "Club Beni"とはいったいどんな店か?
■観光パンフ『THIS WEEK in TOKYO』に載っていた広告。
添付で届いた画像を見る。1957年2月18日刊で価格は50円。念のためにカレンダーを調べると刊行日は月曜日だった。毎週月曜刊で1週間を存分に楽しんでくれ、というガイドなのかも。
表紙の椿娘?だが、最初はえらく和風”Exotica”過ぎないかと面食らった。しかし、日本にやってきたGIたちの多くは実は田舎から来ていた。だから、こういう牧歌的トーキョーが彼らの郷愁を誘ったのかも知れない。ま、”WHERE TO GO-WHAT TO DO"ということで、2月が花の見頃でオススメという意味なのかも知れないけれど。
さて問題は下記のページ。なぜBaugher氏が”Beni Basha”と重ねて訊ねてきたのか、中身を読んで判った。『BENIBASHA』の広告に書かれた所在地が、私が知らせた”クラブ・ベニ”の赤坂田町だったからだ。
結論からいうと、”Club Beni”とは、つまりナイトクラブ『紅馬車』のことであった。周辺で他に頭にベニが付く店は見当たらない。また英語圏の話者にとって、3音節以上の日本語は発音しにくいらしい。そこで「Be-ni」と2音節に略したのだと思う。店名のデザインを見ても「Beni」が印象に残る。
さて『紅馬車』はどんな店だったのか、調べた結果をBaugher氏に送る。
ということは、客筋も最上級のナイトクラブにGLHは出演できたのだから、やはり彼女たちのプレイヤーとしての評価は高いものがあったのだろう。
■謀略渦巻くキナ臭いオトナの社交場。だからオモシロイが。
昔風にいうと”大人の社交場”。フランク永井の名曲「東京ナイト・クラブ」は男女の艶な世界だが、少なくとも『紅馬車』は政治と経済と戦争の魑魅魍魎たちが交歓するラビリンスだった。
立地が赤坂で、政治家、大手企業の上級職、商社の担当者、曰くありげな外国人などが多数出入りしているナイトクラブの最高峰という店。ゆえに、ここには書かないが、なにかと店内にキナ臭い話が充満している。個人的には好きな世界でキワメてオモロイのだけど。ここは音楽の話、興味のある方は各種原典を当たられたい。
■1950’sのJazz。ナイトクラブ文化を支えた”時代”の空気。
そうそう、『THIS WEEK in TOKYO』の話。『紅馬車』の広告に書かれていた専属バンドのひとつ、Misao Ikeda & His Rhythm KingとボーカルのYoshiko Shinkuraという文字に目が行って、思わずニンマリした。ここでYoshikoと再会するとは……。
Yoshiko Shinkuraこと新倉美子はジャズブーム全盛だった1950年代を象徴するボーカリストのひとり。当時”最も美しい女性歌手”と讃えられた美女だ。池田操とリズム・キングスの専属ボーカルを務めたが、1957年に池田と結婚し芸能界を引退した。池田、果報者よの。
米軍基地慰問豆歌手出身のスター江利チエミとともに出演した映画『青春ジャズ娘』(1953年)は、新倉愛好家にとって永遠の聖典である。もちろん筆者もDVDを神棚に飾って二礼二拍手一礼を欠かさない。
上記は『青春ジャズ娘』の1シーン、当時のナイトクラブの雰囲気を多少なりとも感じ取っていただけると思う。
もひとつおまけに、新倉美子。
そのブーム、流行としてはドラム合戦/ドラムバトルなどドラマーに注目が集まったことも特徴のひとつ。石原裕次郎の代表作、1957年公開の映画『嵐を呼ぶ男』のテーマはまさにそれ。
■ジャズからムード歌謡へ、ロカビリーへ、変わる潮目。
しかし時代の潮目が変わりつつあった。
ジャズ界の名ドラマーだったフランキー堺は、米軍基地サーキットもこなしていた自身のビッグバンド『フランキー堺とシティ・スリッカーズ』を抜けて、1957年から俳優・喜劇役者に転身。
”低音の魅力”フランク永井も当初はジャズ歌手として成功を目指していたが、ジャズでは売れず歌謡曲に転向。”ムード歌謡”を代表する大ヒットの数々を放った。そのひとつ、松尾和子との名曲「東京ナイト・クラブ」の発売は1959年。
1956年、エルビス・プレスリーがRCAから”傷心旅館”で衝撃的なデビューを果たし、白人層に本格的なRock'n'Rollブームが到来。日本では1958年に開催された「日劇ウエスタンカーニバル」でロカビリーブームが巻き起こって、大衆文化も転換点を迎えていた。
なぜこんなことを書くのかというと、そのような環境の変化に順応してGLHもプレイスタイルをチェンジし時代を乗り切っていったと思うから。
米軍基地サーキットの初期、米兵に人気の演目だったというアクロバットから芸歴をスタート。ジャズブーム全盛期にはこどもジャズバンドへ、長じてからはPOPやロック、ソウルの世界へと、GLHはメタモルフォーズしてきた。
しかし、それは芸的な無節操さではなく、彼女たちの生きていくことへの強靱さの顕れなのだと私は受け止めている。
でなければ、10年前THCのブログにBickel氏が残したコメント、
「彼女たちはステージ上で相性抜群で、斬新なナンバーでそれがよく表れていました。グループが演奏をやめたのは悲しい日でした。彼女たちがいなくて本当に寂しいです。」
という受け手の感慨は生まれ得なかったのではないだろうか。
◇ ◇ ◇
次回はBickel氏が保管している貴重な資料をスタート地点に、GLHとその父母である秦玉徳・旭天華夫妻が暮らしていた界隈をWalkingしてみる。
さあ、通りへと繰り出そう。