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Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【B-4】Zippoに記された謎のナイトクラブを探れ!


(本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成、画像や情報などを共有させていただいております。)

■『Club Beni』ーZippoに名入れされた謎の店。

6月の半ば、Baugher氏から質問のメッセージが舞い込んできた。ちょうど青木深教授の2冊の本についてやりとりをしていた時だった。

Hi. Do your books have information about a “Club Beni”? Bill Bickel has a cigarette lighter engraved with Gay Little Hearts and ”Club Beni”.
Taku Hakomori give the cigarette lighter to Bill in 1964. Taku told Bill “Club Beni” was in Yokohama.

あなた(が読んでいる青木教授)の本には”Club Beni”についての情報が載っていますか? Bill Bickelは、Gay Little Heartsと”Club Beni”の文字が刻まれたライターを持っている。1964年、Taku HakomoriはBillにそのライターを贈った。TakuはBillに”Club Beni”は横浜にあると伝えた。

(注 Taku Hakomori:GLHのマネージャーだった人物。次章で詳述)

つまりこれが探索テーマの9番目に挙げた、

9.米兵がGLHから寄贈されたGLHネーム入りのZippoライター。その片面に印されていたクラブはどんな店でどこにあったのか?

である。ー”Club Beni”。そのライターにはどんな風に名入れされているのか。Baugher氏が画像を送ってくれた。

GLHのマネージャーからBill Bickel氏に贈られた名入れZippo。
(Courtesy of Roy Baugher)

His is what the cigarette lighter looks like….Bill-San has no information about Club Beni.

シガーライターはこんな感じです…Billさんは”Club Beni”に関する情報を持っていません。

”Club Beni”? 青木教授の著書2冊にその名前は記載されていなかった。ただ、国会図書館デジタルでは1件だけ獲物が引っ掛かってきた。その内容をBaugher氏に伝える。

国会図書館デジタルで「クラブ・ベニ」を調べたら、一件だけ出てきた。ただし所在地は横浜ではなく東京の赤坂田町です。

週刊公論 1(9);1959・12・29 (中央公論社, 1959-12)
「赤坂田町には、『クラブ·ベニ』『コバカバナ』『白馬車』『ニュー·ラテン·クォーター』とい・・・」

私からBaugher氏へのメッセージ

Baugher氏から返信が来た。

Perhaps Club Beni was a Japanese civilian venue. The lighter may be from the band’s early days.

おそらくクラブ・ベニは日本の民間の会場だったのでしょう。ライターはバンドの初期の頃のものかもしれません。🤔

Baugher氏からのメッセージ

その直後、Baugher氏からさらに続報が飛来する。

Can "Club Beni" be spelled "Beni basha"?
”Club Beni”は”Beni basha”と綴れますか?

This is from “This Week in Tokyo”, 1957-02-18

Baugher氏からのメッセージ

ん?"Beni basha"? メッセージとともに、英語版の古い東京観光案内パンフ『THIS WEEK in TOKYO』の画像が添付で送られてきた。そこには........。

(『THIS WEEK in TOKYO』1957年2月18日発行 Courtesy of Roy Baugher)

その前に、Bill Bickel氏がどういう人物なのかをまずご紹介したい。

■貴重な記念品の持ち主、Bill Bickel氏について。

GLH事務所前に立つ、William "Bill" Bickel氏(1964年?Courtesy of Roy Baugher)

GLHのマネージャーから寄贈された記念品をいまも大切に保管しているWilliam "Bill" Bickel氏。喜ばしいことに今もご健在である。

以前ご紹介したこのページのコメント欄に”WILLIAM BICKEL”の名が見える。コメントは下記。これはBillさんが書いたものだろう。
https://www.zeroto180.org/tokyo-happy-coats-japanese-pop-on-king/

WILLIAM BICKEL says:
October 30, 2014 at 8:47 pm
That top photo is from their February 27, 1966 Ed Sullivan gig.
It’s really a shame that the THC does not have a web site.
The ladies had a on stage chemistry that really showed up in their novelty
numbers.
It was a sad day when the group stopped performing.
I really miss them.

「上の写真は、1966年2月27日のエド・サリバンでのギグからのものです。
THCにWebサイトがないのは本当に残念です。
彼女たちはステージ上で相性抜群で、斬新なナンバーでそれがよく表れていました。グループが演奏をやめたのは悲しい日でした。
彼女たちがいなくて本当に寂しいです。」

Baugher氏の話では、Bickel氏は1950年代末から1960年代にかけてアメリカ空軍の軍人として日本に赴任した。その間、彼はGLHのステージを何度も観たそうだ。それだけ熱烈なファンだったのだろう。そしてGLHの事務所にもよく足を運んでいたという。

アメリカ陸軍海軍空軍の3軍では、それぞれ将校・下士官・一兵卒の各階級ごとに娯楽用のクラブが設置・運営されていた。クラブではメンバーから運営委員が選ばれて、施設や資金の管理や芸能事務所との交渉にあたった。Bickel氏の当時の階級が判らないが、空軍の一般兵士用施設「Airman’s Club」の出演交渉担当だったのかも知れない。だからGLHのメンバーやマネージャーとも懇意になれたと察している。

さて、そのBickel氏に寄贈されたライターに名入れがあった "Club Beni"とはいったいどんな店か?

■観光パンフ『THIS WEEK in TOKYO』に載っていた広告。

添付で届いた画像を見る。1957年2月18日刊で価格は50円。念のためにカレンダーを調べると刊行日は月曜日だった。毎週月曜刊で1週間を存分に楽しんでくれ、というガイドなのかも。

表紙の椿娘?だが、最初はえらく和風”Exotica”過ぎないかと面食らった。しかし、日本にやってきたGIたちの多くは実は田舎から来ていた。だから、こういう牧歌的トーキョーが彼らの郷愁を誘ったのかも知れない。ま、”WHERE TO GO-WHAT TO DO"ということで、2月が花の見頃でオススメという意味なのかも知れないけれど。

(Courtesy of Roy Baugher)

さて問題は下記のページ。なぜBaugher氏が”Beni Basha”と重ねて訊ねてきたのか、中身を読んで判った。『BENIBASHA』の広告に書かれた所在地が、私が知らせた”クラブ・ベニ”の赤坂田町だったからだ。

(Courtesy of Roy Baugher)
(Courtesy of Roy Baugher)

結論からいうと、”Club Beni”とは、つまりナイトクラブ『紅馬車』のことであった。周辺で他に頭にベニが付く店は見当たらない。また英語圏の話者にとって、3音節以上の日本語は発音しにくいらしい。そこで「Be-ni」と2音節に略したのだと思う。店名のデザインを見ても「Beni」が印象に残る。

さて『紅馬車』はどんな店だったのか、調べた結果をBaugher氏に送る。

東京赤坂の「Beni-basha(紅馬車)」で調べたら、情報がたくさん出てきました。当時の日本ではトップクラスのナイトクラブです。政界財界の接待に使われたり、外交の裏舞台にもなったところ。主に”外国人”の利用が多かったという証言もあります。

私からBaugher氏へのメッセージ

ということは、客筋も最上級のナイトクラブにGLHは出演できたのだから、やはり彼女たちのプレイヤーとしての評価は高いものがあったのだろう。

■謀略渦巻くキナ臭いオトナの社交場。だからオモシロイが。

昔風にいうと”大人の社交場”。フランク永井の名曲「東京ナイト・クラブ」は男女の艶な世界だが、少なくとも『紅馬車』は政治と経済と戦争の魑魅魍魎たちが交歓するラビリンスだった。

『紅馬車』は1956年末に赤坂にオープンし、専属バンドとして池田操とリズム・キングが出演していた。

(参考:『スヰングジャーナル』1957年1月号)

店名の”馬車”は、1948年に開店したレストラン『花馬車』に始まり、『銀馬車』『金馬車』『銀馬車(別立地)』と一連の馬車シリーズが元。続いて1956年に『紅馬車』が登場。この時期のナイトクラブ全盛を支えた中の一店

(参考:『新評』「三国人から夜の赤坂奪還をはかる榎本兄弟」新評社 1967年)

『紅馬車』は外人が多く、また航空・船舶・鉄など日本の一流企業が出入りしていた。

(参考:『現代資本家論:日本の360社と300家族』久我伸太郎 大月書店 1959年)

(ビルマやインドネシアへの戦時賠償に絡んで)日本政府と交渉する各国代表部の接待が行われる赤坂のキャバレー”紅馬車”のなかで、スカルノの随員と日本商社の会合が、毎夜のようにおこわれたとしてもふしぎはない。

(引用『会社対会社:企業支配この恐怖の謀略』木村文平 青春出版社 1963年)

立地が赤坂で、政治家、大手企業の上級職、商社の担当者、曰くありげな外国人などが多数出入りしているナイトクラブの最高峰という店。ゆえに、ここには書かないが、なにかと店内にキナ臭い話が充満している。個人的には好きな世界でキワメてオモロイのだけど。ここは音楽の話、興味のある方は各種原典を当たられたい。

■1950’sのJazz。ナイトクラブ文化を支えた”時代”の空気。

そうそう、『THIS WEEK in TOKYO』の話。『紅馬車』の広告に書かれていた専属バンドのひとつ、Misao Ikeda & His Rhythm KingとボーカルのYoshiko Shinkuraという文字に目が行って、思わずニンマリした。ここでYoshikoと再会するとは……。

新倉美子 再発CDのジャケット

Yoshiko Shinkuraこと新倉美子はジャズブーム全盛だった1950年代を象徴するボーカリストのひとり。当時”最も美しい女性歌手”と讃えられた美女だ。池田操とリズム・キングスの専属ボーカルを務めたが、1957年に池田と結婚し芸能界を引退した。池田、果報者よの。

米軍基地慰問豆歌手出身のスター江利チエミとともに出演した映画『青春ジャズ娘』(1953年)は、新倉愛好家にとって永遠の聖典である。もちろん筆者もDVDを神棚に飾って二礼二拍手一礼を欠かさない。

上記は『青春ジャズ娘』の1シーン、当時のナイトクラブの雰囲気を多少なりとも感じ取っていただけると思う。

もひとつおまけに、新倉美子。

そのブーム、流行としてはドラム合戦/ドラムバトルなどドラマーに注目が集まったことも特徴のひとつ。石原裕次郎の代表作、1957年公開の映画『嵐を呼ぶ男』のテーマはまさにそれ。

■ジャズからムード歌謡へ、ロカビリーへ、変わる潮目。

しかし時代の潮目が変わりつつあった。

ジャズ界の名ドラマーだったフランキー堺は、米軍基地サーキットもこなしていた自身のビッグバンド『フランキー堺とシティ・スリッカーズ』を抜けて、1957年から俳優・喜劇役者に転身。

”低音の魅力”フランク永井も当初はジャズ歌手として成功を目指していたが、ジャズでは売れず歌謡曲に転向”ムード歌謡”を代表する大ヒットの数々を放った。そのひとつ、松尾和子との名曲「東京ナイト・クラブ」の発売は1959年。

1956年、エルビス・プレスリーがRCAから”傷心旅館”で衝撃的なデビューを果たし、白人層に本格的なRock'n'Rollブームが到来。日本では1958年に開催された「日劇ウエスタンカーニバル」でロカビリーブームが巻き起こって、大衆文化も転換点を迎えていた。

なぜこんなことを書くのかというと、そのような環境の変化に順応してGLHもプレイスタイルをチェンジし時代を乗り切っていったと思うから。

米軍基地サーキットの初期、米兵に人気の演目だったというアクロバットから芸歴をスタート。ジャズブーム全盛期にはこどもジャズバンドへ、長じてからはPOPやロック、ソウルの世界へと、GLHはメタモルフォーズしてきた。

しかし、それは芸的な無節操さではなく、彼女たちの生きていくことへの強靱さの顕れなのだと私は受け止めている。

でなければ、10年前THCのブログにBickel氏が残したコメント、

「彼女たちはステージ上で相性抜群で、斬新なナンバーでそれがよく表れていました。グループが演奏をやめたのは悲しい日でした。彼女たちがいなくて本当に寂しいです。」

という受け手の感慨は生まれ得なかったのではないだろうか。

◇  ◇  ◇

Google Earth

次回はBickel氏が保管している貴重な資料をスタート地点に、GLHとその父母である秦玉徳・旭天華夫妻が暮らしていた界隈をWalkingしてみる。

さあ、通りへと繰り出そう。

(【B-5】へ続く)


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