見出し画像

「ラッパと娘」がニツポンの朝に流れた。


■ニツポンの朝に、「ラッパと娘」が流れるのを見た。

昨年10月、あの皆様のNHKが朝ドラで『ブギウギ』という番組を放送するというの知った、驚いた、録画した。

主人公を演じる趣里が「ラッパと娘」を歌い出した時、掛け値無しに感動した。長年の笠置シヅ子ファンとして、ニツポン全国の朝の”茶の間”にこの曲が流れる日が来るなんて、まったく想像もできなかった。ホント、長生きはしてみるもんだと思ったよ。

「ラッパと娘」という曲、個人的に笠置作品の中では「買物ブギ」と並ぶ大傑作だと思ってるし、なによりもジャズボーカリストとしての笠置の素晴らしさが漲った作品である。それが朝のニツポンに連日鳴り響いたのだから、思わず落涙した、マジで。

■昔作っていた音楽サイトの文章を引っ張り出してみた。

日本でインターネットが拡大し始めた1997年ぐらいから、自分でタグを打って拙いHPを作り始めた。ブログもSNSもyoutubeも存在しなかった頃、いまからするととても懐かしい。その当時笠置について書いた文章を引っ張り出してみた。

この文章を書いてから5年後だったか、神戸新聞さんからメールが来て、ページのことを記事に取りあげさせてくれと言う。神戸は笠置の出身地であり、記事というのは地元文化について顕彰する連載で笠置の回との話。笠置ファンにとっては願ってもないことだ。

それは笠置愛に満ちたいい記事だった。掲載紙を取っておけば良かったけれど、もう今は手元にはない。


1999/09/05

日本ポップスの先駆者たち『ブギの女王』

笠置シヅ子
日コロムビア◎73CA-2894~96 1988


 太平洋戦争敗戦後に一世を風靡した“ブギの女王”=
 笠置シヅ子の足跡を網羅した3枚組。
 偉大なジャズ+ポップスシンガーの姿を捉えた歴史的遺産。

■「東京ブギウギ」の向こうに、焼け跡の上の青い空が見えた。

笠置シヅ子があばれ歌ふを聴きゐれば
笠置シヅ子も命賭けゐる

              前川佐美雄(『捜神』所収 1964)(*1)

 この曲を初めて聴いたときに実際に見えてしまったのだ、焼け跡の上の青い空が。それは、私が中学生か高校生くらいの話。もちろん私は戦前~戦後の時期に生きていたわけでもないし、リアルタイムで笠置シヅ子の歌に触れたことはなかったが。

 しかし、小学生の頃から戦争記録物を読みあさっていたので、戦前~戦後についての情報は頭にけっこうインプットしていた。そのため「東京ブギウギ」登場の周辺環境をイメージングすることにそう苦労はなかった。(いやなガキだね)

 いまでも笠置ブギの代表作である「東京ブギウギ」を聴くと、「B-29の絨毯爆撃で一面焼け野原になった荒涼とした風景、その瓦礫の中で鎌首をもたげる焦げた水道の蛇口、しかしその上にどこまでも青く澄んで広がる夏空」が、私には見えてくるのである。

 笠置の躍動的なブギの向こうに見える“青空”とは、つまり敗戦がもたらした圧倒的な「自由」だったと思う。敗戦によって旧体制から解放されたその喜びが、服部良一のダンサブルなリズムと笠置の奔放な歌いぶりに余すところ無く込められているのを感じる。(*2)。

 私は「東京ブギウギ」の跳躍感あふれるノリが大好きだ。これほど自由の歓喜を表現へ転化しきった曲はないと信じている。そして平成の現在でもその高揚感がビンビン琴線に響いてくるのだ。すべてが灰燼に帰してスタートラインが引かれ直したとき、自由があり、またすべての人には無限の可能性があったと思う・・・、たとえそれが死と隣り合わせであったとしても。

◇  ◇  ◇

■偉大なジャズシンガーとして評価されるべき笠置シヅ子。

 和洋折衷音楽の大家・服部良一と希有なシンガー・笠置シヅ子のコラボレーションがあって、またそれが敗戦直後という時期に遭遇したことは、音楽界にとっても庶民にとっても、幸福なことだった。笠置ブギは文字通り“現象”となって、日本の歴史に刻まれることとなった。

 とはいえ、笠置シヅ子のシンガーとしての評価がせいぜい“懐メロ歌手”として封印されてしまっていることに、私は怒っているのである。これは、美空ひばりが“演歌の女王”と奉られたが故に若い世代から敬遠されたこと(かつて私もそうだった)と同じく、シンガーとしての力量を素直に判断することを妨げている。

 ジャズシンガーとしての本領は、戦前の録音に顕著だ。1985年3月に笠置は鬼籍に入ったが、その死をうけた6月に発売されたLP2枚組『オリジナル盤による懐かしの針音 笠置シヅ子』(日コロムビア●AZ-7254~55)で、当時のSP盤が数曲収録されてやっとまともに聴けるようになった。

 「ラッパと娘('40)」「センチメンタル・ダイナ('40)」「ホット・チャイナ('40)」などで笠置のジャズ・シンギングが堪能できる。特にアップテンポの「ラッパと娘」では、軽快にスィングするビッグ・バンドに絡んだ笠置のスキャットが素晴らしいノリを見せる。後半のシャウトも笠置らしい豪快な吼え具合だ。よく日米開戦前の昭和15年(1940)にこれだけの録音が残せたなぁと感心する。

 笠置シヅ子のボーカルはとても黒いフィーリングにあふれている。当時の白人スィングバンドと笠置の録音を聴き比べてみれば、ジャンプ感覚ムンムンのそのスタイルは黒人バンドの方に近い(*3)。現在でもこれだけのリズム感で歌いのけるジャズ歌手が居るかどうか、私は疑問だと思っている(美空ひばりは除く)。

◇  ◇  ◇

●服部・笠置コンビが生んだ和洋混交の大傑作=「買物ブギー」。

 さて、その笠置の持ち味であるリズム感が最大に発揮されたのが日本歌謡の歴史上に輝く「買物ブギー」。これはもう非の打ち所がない大傑作である。

 和洋の接点、その先鋭的部分を駆け抜けた服部・笠置コンビが、“ブギ時代”の最末期に残した総決算的な一曲と言える。当時笠置ブギは「植民地歌謡」などと揶揄されたそうだが、この曲を聴くとどこが植民地歌謡なのか?と驚く。

 服部良一の作詞家としても素晴らしいセンスが光る作品で、大衆芸能(萬歳など)の伝統的な「○○尽くし」ネタを援用したコミカルな歌詞がまず凄い。そしてSP時代の歌謡曲としては異例な多量の歌詞をリズミカルに歌いこなす笠置。「ブギー」と銘打ちながらも、実際は日本独特でしかもイミテーションではない表現に昇華されている。

 この曲は美空ひばりの名唱「お祭りマンボ」と同様にリズムをはずさず歌いこなすのが至難の技である。やはり偉大な歌手はトーシロに真似の出来ない独特の「間」やカラーを持っているのだ。技巧面だけでも、私はこの曲を以て笠置を日本最高のジャズシンガーと奉っている

 ところで笠置シヅ子の音源と言えば、1970年代ではシングル「東京ブギウギb/w買物ブギー」(日コロムビア●NK-36 1977/上画像(*4))しか出回っていなかった。1985年の死をきっかけに前述のLP2枚組がやっと発売され、さらにその3年後に師の服部良一の作品集と共に笠置単独のCD3枚組が出て環境が充実したのは、ファンとしてはうれしい。

 しかし、日本の場合は欧米のリイシューと違い、音楽という財産に対してとても意識が低い。解説や資料的部分が極めて“貧しい”のである。例えば追悼LPの歌詞カードには入っていたオリジナルSPの発売年がCDの解説書には記載されていなかったり、解説もさらりと申し訳程度しかないとかね。だいたい笠置シヅ子が死んだからってやっとこさLPを発売するというのも、馬鹿にした話だ。

 まったく大衆音楽を国民的・歴史的財産として見ていない、としか思えないのだ。たとえ同時代に聴くことが出来なかったとしても、ある程度の手助けがあれば、人は想像力でその時代の空気を共有できるのだ。日本のレコード会社が今後の再発に際しては、私のような「遅れてきたファン」のためにちゃんとしたリイシューをしてくれ、と切に願っている。

◇  ◇  ◇

 さて、二世三世の政治家や芸能人が市井をにぎわす平成の御代。私が生きている内に新たな“東京ブギウギ”を心に刻むことができるだろうか?とふと思う時がある。しかし淋しいことに、その自信がない。

 私の父母は、「東京ブギウギ」が流れていた当時=敗戦直後数年間のことは思い出したくないと言う。それはそうだろうな。でも、ある意味現在よりいい時代だったかも知れないと思ったりもするのだ。

注:
*1/笠置シヅ子逝去数日後の「朝日新聞」大岡信『折々のうた』より。
*2/雑誌『NOISE』1989年夏VOL.2の美空ひばり特集にも同様の感慨を伝える関連記事が掲載されている。
*3/「東京ブギウギ」についてはジーン・クルーパー楽団の「BOOGIE BLUES」(ボーカルはアニタ・オディ 1945/8)のアレンジとムードが似ており影響された部分があるのではと睨んでいる)
*4/「買物ブギー」は差○別用語使用の問題で、現在再発時は一部歌詞が削除されている。このシングルは完全に聴くことができる最後の盤となった。

2024年の注:その後、アメリカの”本家ブギの女王”Ella Mae Morseの「Milkman, Keep Those Bottles Quiet」(1944年)を聴くに及んで、「買物ブギー」は同曲に、特にボーカルの節回しは影響を受けたのではないかと感じている。
https://www.youtube.com/watch?v=AJ4GtRmlwSU



いいなと思ったら応援しよう!