Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【Bonus Track 7】 Pan Orientプロ、謎の芸能事務所につき。
■Baugher氏から届いたメッセージ。
前稿「【Bonus Track 6】 GLHのマネージャー、ダン・ソーヤーの追加情報」をアップした後、それを目にしたRoy Baugher氏からメッセが飛んできた。
まず日本語名に注釈を加えると、タツジ「タッツ」=永島達司、長島秀夫=永島英雄(達司の長兄で弟の影響で興行界に入った)、ナンシー ウメキ=ナンシー梅木、Masaaki Hiro=平尾昌晃、 Tomoko Yamaji (stage name for Tomi Fujiyama)=山路智子(トミー藤山)、となる。
1958年の雑誌に“Pan Orient Productions.”(以下Pan Orient)という芸能事務所の広告が掲載されていて、所属アーティストにGLHの名前が出ているというのだ。
◇ ◇ ◇
永島達司が駐留軍へのタレント斡旋を行っていたSNプロダクション(以下SNプロ)と並行してマネージメント会社を興したが、その当時の所属タレントがリストにある梅木、平尾、そして笈田敏夫だった。
Baugher氏のメッセージに出てくる Pan Orientの所属アーティストとして、永島が抱えていた3人のうちふたりの名前が出てくるわけで、それからしてもPan OrientはSNプロの海外向け別看板なのか?
さらに私が注目したのは、もう一人挙げられている山路智子/トミ藤山。彼女については、ちょいと以前C&Wについて調べている時に知った。日本人として初めてあの『Grand Ole Opry』に出演しスタンディングオベーションを受けた人だ。
山路智子は1959年にコロムビアに移籍して「トミー藤山」と改名するので、Pan Orientの雑誌広告出稿はその直前となる。
藤山が自叙伝を出版していたことは調べて知っていたので、もしかしたらと思って地元の図書館で検索した。閉架収蔵されていたので予約、GO!
■永島達司への回想、トミー実父と永島の諍い。
開いてみたトミ藤山の自叙伝。”東海の美空ひばり”の愛称で山路美鳩名で芸界に入り、1953年テイチクから山路智子として正式デビューした藤山の長い芸歴ゆえに、興味深いエピソードが満載。
中で、最もお世話になった人として、永島達司について結構な紙幅を割いている。仙台の米軍基地慰問公演の際に発生した、マネージャー役を務めたステージパパの実父と永島達司の諍いの一件には驚いた。
藤山にとって諍いの原因は不明だが、実父は永島に「智子をもう仙台には行かせない。公演に出したければ、両手を床についてお願いしますと言え!」と激怒。そして永島は両手をついた、というのだ。呼び屋として公演に穴を開けるわけにはいかないという永島のプロ根性に藤山は敬意を表している。
でもね、普通なら「次からはお前らに頼むか!」って恨みに思うのが常なのだけど、永島と藤山との契約関係はその後も続いていたわけだよね。永島の器のデカさもあるけど、トミ藤山の人徳ゆえかとも思ったりする。
さて、肝腎のSNプロやPan Orientについては、残念ながら藤山の記述の中に直接的な言及は見当たらなかった。が、しかし........。
■意外なところに隠れていた足跡。
一読して本文には見当たらなかったが、どこかにないかともう一度ページをめくっていた。そしたら、妙なところから顔を出してきた。
「ここにあるじゃんか?!!」
米軍キャンプで発行されたという新聞の記事が本書に紹介されているが、その中に、Pan Orientの文字が小さく書かれていたのだ。GGの衰えた視力のため、豆粒以下の極小文字をつい見逃していたのである。
そこにはこう書かれている。
このMrs.Manase?、ミセス・マナセ?、誰かと思ったら、1948年に日本初の芸能プロダクション『オリエンタル芸能社』を設立した、曲直瀬花子のことだ、間違いない。花子はあの渡辺プロ、渡辺美佐の母である。
ウィキから引用する。
Pan Orientとはつまり、曲直瀬夫妻が立ち上げた『オリエンタル芸能社』のことではないのか?
『オリエンタル芸能社』は1948年の創業から仙台で活動していたが、講和条約の発効と米軍基地の撤収が始まった1952年に拠点を東京に移して、『マナセプロダクション』と改名した。
藤山が山路智子と芸名を変えたのが1953年、さらにトミー藤山となったのが1959年であることから、米軍キャンプ新聞の記事は1953年から1958年頃の間制作されたものと思われる。がしかし、その時、すでに曲直瀬夫妻の会社は『オリエンタル芸能社』から『マナセプロダクション』に改名している。
冒頭のBaugher氏のメッセージについて「Pan Orientの所属アーティストとして、永島が抱えていた3人のうちふたりの名前が出てくるわけで、それからしてもPan OrientはSNプロの海外向け別看板なのか?」と書いたが、米軍キャンプ新聞の記述から考えると、SNプロとマナセプロの合弁会社という線が濃厚ではないかと思えてきた。
キーパーソンであるナンシー梅木を間にして、米軍基地のクラブマネージャーだった永島達司が呼び屋稼業に入るうえで、曲直瀬夫妻との出会いと関わりは大きかったのではなかろうか、そんな想像をしている。
【10月9日追記】
①「米軍キャンプ内の新聞」として紙面の写真と説明文だけで写真の記事全体を見ることが出来なかったため、本文ではOriental ProductionsとPan Orientを同じ企業・組織と勘違いしている。
本稿アップの翌日にRoy Baugher氏から送付いただいた米軍EMクラブ雑誌の画像によって、Oriental ProductionsとPan Orientはまったく別企業であることが判った。詳細は次の【Bonus Track 8】でご覧いただきたい。
◇ ◇ ◇
②本文では曲直瀬夫妻が仙台で立ち上げた『オリエント芸能社』の創立年をWikipediaの記載に従って1948年とした。
しかし竹中労著『タレント帝国:芸能プロの内幕』およびその改訂版と覚しい『タレント残酷物語 スターを食いものにする悪い奴は誰だ』を読むと、同プロの創業年は1946年4月となっている。両書とも竹中が当時の大手プロダクションの代表者や関係者への綿密な取材をもとにまとめたものであることから、1946年が正しいと考える。
また『オリエント芸能社』の東京移転に伴って社名を『マナセプロダクション』に改名した件も、ウィキでは1952年と受け取られる書き方がされている。しかし竹中の著書では、1954年夏に駐留軍のタバコ密売事件で仙台北警察署に検挙され事務所をガサ入れされたことが契機となって東京に逃れたとあり、東京移転時も『オリエント芸能社』の看板を掲げたとある。
(了)