【回顧・偉大なる音楽商人】Mickie Most。
正真正銘、ほんまに、どてらい音楽商人(あきんど)やね、Mickie Mostの大将は。
1960年代から80年代初頭にかけて、イギリスPop界で巨万の富を築いた大音楽商人、令和の御代まで名を遺す、Mickie Mostの一席を不弁ながらも、務めます。
グラムロックのブームに翳りが見えはじめた1973年のこと、東芝音工から1枚のシングルがリリースされた。イギリスで黒いレザーのジャンプスーツに身を包んだ女性ベーシストが大人気だ、と宣う音楽雑誌のグラビアに目が釘付けになった。
”背徳のサディスティック・ロック”?! 東芝は宣伝文句と売り出し方は確かに他社より一枚上手だった、と今でも思う。
それがSuzi Quatroと、音楽商人Mickie Mostとの出会いだった。
■1960年代の商人ぶり:仕損じなしのヒット仕掛人。
Mickie Mostの歴史を紐解くと、「え、あの曲も?!」と驚くことが多い。それだけヒット作に関わった音楽商人としての証でもある。
あの世界的に大ヒットした「朝日のあたる家」もMostの仕込みとして最も著名であり、業界で名を上げることになった作品である。
CD『The Pop Genius Of Mickie Most』(以下Ace盤と略す)のリスティングで見れば、Donovan、Herman's Hermits、Jeff Beck Group feat Rod Stewartなど有名どころも多数。Donovanの「Sunshine Superman」は全米No.1に輝いている。
さて。1964年、”リトル・ミス・ダイナマイト”ことBrenda Leeが渡英してMostの制作で録音しスマッシュヒットとなった「Is It True」は捨てがたいナンバー。ギターはJimmy Pageでワウワウペダル使用の先駆的作品という。
Mostが「Tobacco Road」のヒットで知られるThe Nashville Teensの録音に臨んだ際のこと。メンバーの話によれば、まず曲のリハーサルがスタート。終わったところでいざ本番かとメンバーが思っていたら、コンソールの方から「じゃあ、次行ってみよう」とMostの声が響いたという。実はMostはリハを録音していたのだ。スタジオ使用料を節約して値入額を稼ぐMostの”ど根性ぶり”に感動を覚えるエピソードである。
その商いぶりに惹かれたのがLulu。自分からMostにプロデュースを依頼した。映画主題歌として全米No.1になった「To Sir With Love」(邦題「いつも心に太陽を」)はよく知られているので、もう1曲Ace盤に収録されたNeil Diamond作のカヴァー「The Boat That I Row」を。サビへの運びからサビの盛り上がりへと匠の技が冴える。
1967年、MostはYardbirds最後のアルバムをプロデュース。3分間の売れ線に収めようとするMostの商家家訓にメンバーは反発、というのは有名な話。Beckの『Truth』ではそう違和感を感じなかったが、本作はこぢんまりしてオーバープロデュース感は否めない。ニューヨークAnderson Theatreでのライブの方がまだイイ。
ヘビー化、脱シングル化していくロックの流れにMostはついて行けず、自身のヴィジョンを実現するために、次のステップへと向かった。しかし、その結果が一時代を築くことになる。
■1970年代の商人ぶり:RAK設立でPostグラム時代に商道全開!
1968年、ビートルズのAppleレーベルからデビューし、”ポップス界のシンデレラ”の代名詞でスターダムに昇ったMary Hopkin。その3rdシングル「Temma Harbour(邦題「夢みる港」)」をMostがプロデュース。この曲はリアルタイムで聴いていたけど、当時はMostのことを知らなかった。
Appleでの前作「Goodbye」を巡ってマッカートニーのプロデュースにHopkinが反発したとの説もあって、そこでヒット請負人Mostの登板に相成ったのか。次の「Knock, Knock Who's There?」もMostで、両方ともいい曲なのにAce盤にはなぜか収録されていない。
そのHopkinのシングルを制作した1969年、Mostは自身の音楽商道の拠点ととなるRAKレコードを創設する。
タレントスカウトの目利きでもあったMostはアメリカで女性ベーシストに目を留める。Ace盤のライナーに記されたSuziへの口説き文句がいい。
「エレクトラから、ジャニス・ジョプリンの再来だと言われて契約したいと言ってきた。でもMostはこう言ったのよ、『よかったら”最初のSuzi Quatro”になりませんか?』」(大意)
フォーク調の1stシングルは不発だったが、レザーのジャンプスーツでヴィジュアル面でのイメージチェンジも図って臨んだ2枚目の「Can The Can」が大ヒット。Suziは一気にスターダムへと昇った。
続いてMostが発掘した4人組MUDがヒットの連発を始めた。
1974年、MUDの代表作「Tiger Feet」はメロディーメーカー誌の1月19日号に22位で初登場し、2月初旬には堂々のチャート1位を占めた。しかし2月23日号ではその首位をSuzi Quatroの「Devil Gate Drve」が奪うという象徴的な事態が発生する。
豪商Mickie Mostの御金蔵に千両箱の山がウハウハと積み上げられる”倫敦永代蔵”の時代がここに現出したのである。
■Mostの番頭役、Chinn&Chapman、大活躍す。
音楽商道、もちろん大店の旦那だけでは商いは成り立たない。広澤虎造師が『石松三十石船』で喝破した如く、「物事出世をするのには、話し相手、番頭役が肝心さ」なのだ。
Mostにとっての番頭役とは、ソングライターチームNicky ChinnとMike Chapmanのコンビ(以下C&C)、俗に”チニーチャップ”と呼ばれる二人であある。彼らは1970年代のiconとも言うべきヒット製造工場の主任だった。
C&Cは、1971年からThe Sweetへの楽曲提供で全米ヒットを飛ばすなど名を上げていたが、RAKとも手を結んだ。Mostのドル箱たるSuzi QuatroやMUD、ARROWSなどメインアーティストのシングルA面は、その多くがC&Cの作だった。
番頭役C&CというピースがRAKに嵌まらなければ、1970年代前半期の商い大繁盛は成就できなかっただろう。
■なぜ史上最低のロックバンド、MUDがACE盤から落ちているのか?
前々から私は、Mickie Most商道のエッセンスを網羅した庭訓アンソロジーが欲しかったが、このACE盤はまさに待望の一枚だった。しかし画竜点睛を欠くの喩えどおり、Mostの3分間快楽を代表する最大最低のバンドがなぜかリストから落ちていたのだ。
それはSuziQと並んで、Mostの銀行残高を極度に肥大化させたMUDである。MostとC&Cが地上に創造した傀儡子4人組だが、最低すぎるところがなんとも愛おしい存在なんである。
この多幸症的バカバカしい3分間こそ、MostがRAKレコードを創設して成そうとした音のヴィジョンの具現化であり、そのコンセプトを最も体現した音楽集団がこのMUDだったのではないか、と私は思っている。
だからACE盤がMUDをオミットしたことが、どーにも納得いかないのだ。Chris Speddingの「Motorbikin'」などはしっかりと収録されているにもかかわらず。
■2003年、巨星墜つ。
2003年、Mickie Mostは逝去。レコーディングスタジオに置かれていた遮音板のアスベストのために中皮腫で亡くなったという。最期まで音作りに殉じた生涯とでもいうか。
英国の富豪トップ500人にランクインしたMostは、莫大な財産と屋敷を妻と子供たちに遺した。
その翌2004年に、Mickie Mostと、04年2月に逝去したMUDのリードボーカルLes Gray両者への追悼盤として、英EMIは『A's B's & Rarities』を捧げた。ライナーにはSuziをはじめてとして関係者のお悔やみの言葉が載る。
音楽商人Mickie MostとRAKの全盛期というとやっぱり1975年くらいまでかと個人的に思う。加えて、その極度にコマーシャルに統制されたパッケージ群は、次にやって来るPUNKの引き金になったのではないかとさえ感じている。
Most自身の音楽商道が隆盛を極めれば極めるほど、それとは真逆の破壊的創造を招き寄せたのだとしたら、それは大いなる皮肉かも知れない。
(了)
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