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Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【Bonus Track 6】 GLHのマネージャー、ダン・ソーヤーの追加情報

左:旧版『ヤァ!ヤァ!ヤァ!ビートルズがやって来た 伝説の呼び屋・永島達司の生涯』
右:文庫版『ビートルズを呼んだ男』(両方とも幻冬舎 旧版1999年、文庫2001年刊)

本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成しています。

本文、敬称略

■伝説の呼び屋、永島達司についての伝記本をめくる。

「【Bonus Track 3】 ある書籍に記載されていたGLH/THC情報」でご紹介した『戦後期渡米芸能人のメディア史: ナンシー梅木とその時代』。その中で、GLHのマネージャーとなったダン・ソーヤーについての情報が掴めたのだが、さらに何かないか探ってみた。

『ナンシー梅木とその時代』を書いた大場吾郎教授が参考資料として挙げていた一冊が『ビートルズを呼んだ男』(野地秩嘉著、Kindle版 2017 小学館)。その原著である幻冬舎版の2冊が地元の図書館に収蔵されているのが判ったので、借りて中身を確認してみたのだ。

同書はキョードー東京の創設者で、ビートルズをはじめとする海外のエンタテイナーに敬愛された永島達司の、詳細な取材を元にした伝記本。永島がタレント斡旋業として初めて『SNプロダクション』(以下SNプロ)を設立した当時の話が詳しく書かれているのではないかと、図書館に出向いた。

タイトルは改題されているが、中身は一緒だろうと察しはついた。が、再版時に増補改訂されたりするので、両方借り出しした。特に若い時代の”やばい”話は、往々にして削除などされる場合があるからね。

中身をチェックすると文庫化に伴っての増補改訂はなされていないようだ。ダン・ソーヤーについては、「第四章 興行の現場」に言及があった。

■『SNプロダクション』の設立、ソーヤーと永島の関係。

まずSNプロ設立前後の永島の状況について引用させていただく。

 一九五三年三月二十八日、ふたりは結婚し、(注:藤田)泰子は映画界を引退した。その前年、永島は七年間勤めたジョンソン基地をやめ、アメリカ人の知人ふたりと駐留軍(対日講和条約の発効後、進駐軍は駐留軍という名称に変わった)のクラブにミュージシャンを斡旋するSNプロダクションを始める。
(中略)
 彼は駐留軍を相手にするプロモーター兼芸能プロダクションの社長となったのである。

旧版「第三章 結婚」64P 太字は引用者

実際にご本人への取材を元にしている記述なので、SNプロの設立は1952年ということで確定である。「アメリカ人の知人ふたり」とは言うまでもなくアロンゾ・B・シャタックとダン・ソーヤーのことだ。

第四章に入って、彼らの詳細な話が出てくる。

 SNプロダクションでミュージシャンを仕入れてくる役目は、アロンゾ・B・シャタックとダン・ソーヤーというふたりのアメリカ人が負っていた。

旧版「第四章 興行の現場」71P

ダン・ソーヤーはプロダクションではタレントスカウトを担当していたわけで、それでGLHを所属タレントとして勧誘しマネージャーに収まった、ということか。テッド・ルーインと共にクラブ『ラテンクォーター』の経営にも関わっていたシャタックについて、より詳しいペルソナが紹介されていた。

シャタックは見かけはまるまると太ってにこやかな好人物に見えるが、元はアメリカ陸軍の犯罪捜査機関CIDにいた人間である。彼と永島が知り合う以前に、軍の命令で、マニラに本拠を持っていた国際賭博組織のボス、テッド・ルーインを取り調べに行ったことがある。逮捕を前提にマニラに出かけたにもかかわらず、シャタックとルーインは意気投合してしまい、仕事を手伝うようになった。ミイラ取りがミイラになったということわざ通りで、裏の顔を持つ男だったのだ。

同上

さて、肝腎のダン・ソーヤーについて。

一方、ダン・ソーヤーはアメリカで警官をやっていたという朴訥とした人物で、日本に来てから軍に物資を納入する仕事をしていた。ソーヤーはシャタックに頼まれ、SNプロダクションの実務を管理していたのである。当時、SNプロがタレントを斡旋していたのは日本国内の駐留軍基地に限らず、香港、シンガポール、マニラ、インドネシアといった東南アジア各地までをその守備範囲にしていた。

同上

グローバル芸能プロとでも言うか、手広く業務をやっていたことに驚く。SNプロの海外展開については、『戦後期渡米芸能人のメディア史: ナンシー梅木とその時代』にその業務の概略が記されていた。

 戦後、米軍基地のクラブ・マネージャーとして進駐軍ビジネスのノウハウを学び、自ら興行を手掛けるようになっていた永島達司はナンシー(注:梅木)の兄・三男とともに、在日米軍クラブの慰問ショーを沖縄、台湾、フィリピンなど米軍が駐留する各地へ巡業させるような仕事もしていた。米ソ冷戦がアジアに拡大する中、日本、沖縄、台湾、フィリピンは、アメリカの対共産主義防衛線でつながっていたのである。

『戦後期渡米芸能人のメディア史: ナンシー梅木とその時代』 93P

日本人のアーティストが海外にまで出演したかどうかについては、脚注に「これらの慰問ショーはアメリカの芸能人を起用したもので、日本の芸能人は参加していなかった」(内野二朗)とある。しかしナンシー梅木は渡韓し米軍基地で歌ったというが、GLHはいかに? 1964年渡米前、好評だった沖縄慰問ツアーも、ナンシーと同様、エアベースから米軍機で直行したのではなかろうか。

またSNプロの事務所の所在地については、『ラテンクォーター』の裏手にあって日比谷高校のグラウンドあたりだという。二階建ての木造家屋を事務所としていて、「不良外人たちが出入りしていた」と記されている。(旧版「第四章 興行の現場」、73P)

GLHがSNプロにスカウトされた際、その事務所にメンバーと両親は顔を出したのだろうな、と思いを巡らしている。

■SNプロの業務中断と、GLHのその後。

GLHとダン・ソーヤーとの関係について、永島の動きも含めて時系列を組み直してみた。

●1952年:永島、シャタック、ソーヤーの3人でSNプロを起業。
●1953年:GLH、『婦人倶楽部』特集でアクロバット姉妹として登場。
 (GLHとソーヤーの出会いはこの頃か)
●1954年:GLH、ソーヤーの指示で音楽バンドへ移行。
●1954年〜55年頃:奥田宗宏、楽器を始めたばかりのGLHと出会う。
●1956年:SNプロがペレス・プラド楽団招聘。しかし入管法違反で楽団とシャタックは国外追放。SNプロの業務が一時中断。
●1957年:永島、芸能マネージャー業務を畳んで、協同企画を設立。外国人アーティスト招聘に専念。

推測としては、1956年のプラド招聘に絡む入管法違反で共同経営者のシャタックは国外追放となった時点でSNプロは解散またはソーヤーが事業継続し、永島とソーヤーとの業務上のつながりはその時点で切れたのではないか。シャタック追放の翌年、協同企画設立後は、永島はハワイ出身の日系二世プロモーター・ラルフ円福と出会ってパートナーシップを結び、アメリカからのタレント招聘に邁進していく。

SNプロの業務中断後、GLHの両親である秦玉徳・旭天華は自身の事務所『旭興行株式会社』を設立して娘5人のプロモートを開始し、Shokoさんの夫で英語が堪能なTaku Hakomori/秦風旗が米軍との交渉を担当したのだろうと見ている。

ただGLHが1964年に渡米する際にソーヤーの意見でTHCへの改名が行われたことからすると、事件後もGLHとソーヤーの関係はずっと続いていたわけだ。1960年代に入ってのソーヤーと『旭興行株式会社』の関係がどう繋がっていたかは謎のまま。

◇  ◇  ◇

余談。永島達司は英語力の高さを買われて、ジョンソン基地のクラブ・マネージャーとして興行の世界に足を踏み入れた。Taku Hakomori/秦風旗についても同様で、英語が堪能だったために基地のマネージャーの職を得たことで公演に来たShokoさんと出会ったのではないかと想像している。


【10月9日追記】竹中労『タレント帝国:芸能プロの内幕』(現代書房、1968年7月)には、永島達司の『SNプロダクション』創業と共同経営者について下記の記述があった。

 アルフォンゾ・シャタックは,永島達司(現協同企画社長)、野村弘(CIE映画演劇課・現新日プロモーション)、ラルフ永良(日本交通公社芸能部・現日綜アーチスト代表)らと組んで”S・Nプロ”をつくり、呼び屋を開業して、ジーン・クルーパー、ザビア・クガート、ペレス・プラドなどを来日させた。クガートなどは表むき「東宝芸能」のプロモートということになっているが、舞台裏はテッド[ルーイン]一味が糸をひいたギャングの手打ち興行で、シャタックがマネージメントの一切を掌握していたのである。

同書62P、[]書きは筆者

(了)


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