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Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【A-7】沖縄に入れば天勝が飛び出すイリュージョン。

現在の那覇市ゆいレール赤嶺駅周辺の空撮
(1970年5月撮影/国土交通省:地図・空中写真閲覧サービス)
写真上部右側2/3が米軍の住宅地、左側縦1/3が基地。それ以外右下側が地元民の集住地。

(本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成、画像や情報などを共有させていただいております。)

■なぜGay Little Heartsは沖縄での慰問公演が多かったのか?

Baugher氏と、姉妹の”ハコモリ”姓についてやり取りしていた際のこと。

私が「箱森・箱守」を名乗る人口の少なさについて情報を投げると、さらに氏から「ハコモリ姓の人は沖縄ではどの程度存在するのか?」と訊ねてきた。ん?と思ったが、それが探索テーマの6番目。

6.沖縄に”ハコモリ”という姓はどの程度存在するのか? GLHの沖縄基地公演が多いことによる、Baugher氏の疑問。

 『【A-2】THCを調べ始めてみた、ものの。』でもご紹介した通り、沖縄県ではハコモリ姓の県民はほぼ100%存在しないので、そう返信した。

では、Baugher氏がなぜ私にそのように訊ねたのかと思ったら、「GLHが沖縄で慰問公演を行った回数が、日本本土にある米軍キャンプと比べるととても多いからだ」という。それを聞いて、「GLH&沖縄」というキーワードでいま一度国会図書館デジタルで検索してみないといけないな、と思った。

◇  ◇  ◇

いざ検索しようとして、ふと思案した。

すでに”ゲイ・リトル・ハーツ”で検索して『スヰングジャーナル』の記事1件しかヒットしていない。ならば、ここは試しに”Hearts”の日本語表記を原語に忠実な”ハーツ”ではなく、日本人なら書きそうな”ハート”で検索した方がイイのではないか、と。

さて「ゲイ・リトル・ハート&沖縄」で検索したら、新たな1件を神がお恵みくださった。漂流する太平洋のど真ん中で孤島を見つけた心境。じーざす。

(国立国会図書館デジタルコレクションの検索結果)

出てきたのは『週刊読売』1966年12月2日号の記事だった。が、またしても著作権のために図書館に出向かねば該当箇所が読めない。遠い地方暮らしの田舎者には無理なのだ。もぉ、ねえ。

そこで、ひとまずテキストだけでも保存しておこうと、「12コマ:〜大変な人気で、…」の文章のところをメモにコピペしてみた。そしたら、あら不思議! 少しだがサムネに表示されていない文字がシルクハットから飛び出したのだ。そのコピペ文にはこうあった。

している例も多い。『ゲイ·リトル·ハート』という初代天勝の五人の弟子のバンドが大変な人気で、沖縄にファン·クラブまでできたり、女ひ

太字がコピペでさらに拾えた箇所

すでに記事掲載の2年前、1964年にアメリカはベトナム戦争に参戦し、沖縄はその巨大な前線基地と化していた。

『沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book 平成29年版』(沖縄県)

基地や施設の数、規模、兵員数が日本本土とは桁違いに膨らんでいた沖縄でファンクラブが結成されるほどに、GIたちの間でGLHは人気だった。元から層が分厚いファンたちの強い引きがあれば、沖縄慰問の回数も増えるはずである。記事の筆者があえて特記しているのは、それだけ沖縄の状況が他地域よりも目立っていたからだろう。

◇  ◇  ◇

またBaugher氏からは、こういう情報もいただいていた。

(『Variety』Courtesy of Roy Baugher)

"Tom Ball scouting Nippon talent for second U.S. edition of 'Geisha Girl Revue'"
Variety, 20 August 1958, page 69. Tokyo, August 13.

Night club show producer Tom Ball, who scored last year with a Geisha Girl Revue, is back for a month to cast a second edition [of the Geisha Girl Revue show]....
Strongly being weighed [considered] by Ball now is a child musical act called The Gay Little Hearts which is solid on the U.S. military circuit here.

「トム・ボール、第2回米国版『ゲイシャ・ガール・レビュー』のために日本のタレントを発掘」
バラエティ、1958年8月20日、69ページ。 東京、8月13日。

昨年『ゲイシャ・ガール・レビュー』で成功を収めたナイトクラブショーのプロデューサー、トム・ボールが、第2回『ゲイシャ・ガール・レビューショー』のキャストとして1か月間戻ってくる。
ボールが現在真剣に検討しているのは、ここの米軍サーキットで確固たる地位を築いている、ザ・ゲイ・リトル・ハーツという子供のミュージカルグループだ。

Roy Baugher氏からのメッセージ、訳文もご本人作成(太字は引用者)

『Variety』紙の発行は1958年8月、あの『スヰングジャーナル』の記事が掲載された3ヶ月後だ。まだ12〜13歳の子供だった時点で、すでにGHLは米軍基地サーキットでは確固たる地位、支持を獲得していた。

さらに1960年代へ、月日を重ねて子供から大人へ、女性としての磨きもかかったことで、特に沖縄では”GLH ARMY”が出来るくらいに人気に拍車が掛かったのは想像に難くない。

米軍専用『Club HIBANA』で演奏中のGLH(Courtesy of Roy Baugher)

これで、Baugher氏の疑問にはひとまず答えが出たものと思う。

しかし予想外のデカイ疑問がシルクハットから飛び出してきたのである。まさに奇術的展開だ。

■GLHは、本当に初代・松旭斎天勝の弟子だったのか?

同時に、先の検索結果の文章を読んで、頭がクラクラしてきた。うむ。

している例も多い。『ゲイ·リトル·ハート』という初代天勝の五人の弟子のバンドが大変な人気で、沖縄にファン·クラブまでできたり、女ひ

(太字は引用者)

記事の筆者は、GLHの5人が、前回ご紹介した明治後期から昭和初期にかけて活躍した偉大な奇術師、初代・松旭斎天勝の弟子だったと書いてる。

え?そんな?

労作というべき貴重な芸能サイト『見世物興行年表』さんの記事によれば、天勝は今からちょうど90年前の1934年1月に引退宣言して、以来ほぼ2年間に渡る引退興行を続け、1935年10月の朝鮮京城公演で有終の美を飾った。

右が松旭斎天勝(public domain)

その後は、姪の正天勝(絹子)に二代目を襲名させ自身は”大天勝”と号し、余生を過ごした。しかし、1944年11月11日に食道癌でこの世を去ったのである。享年五八。

ゆえに、天勝逝去の1944年といえば、GLHの5人が未生以前か生まれたばかりの頃合い。弟子入りなど出来るはずがない。可能性があるとすれば、初代引退後に”天勝”を襲名した”二代目”への戦後以降の入門、ではないか。

筆者があえて”初代”としたのはなぜだろう? 大天勝のネームバリューでアピールするためか、それとも単なる勘違い・思い違いか。

しかし、もし戦後に5人が二代目天勝に入門していたとしたも、”旭天華”との関わりや”アサヒテンカ””アサヒ”を名乗ったこと、元芸がアクロバットだったこととは、どーにも辻褄が合わない。『見世物興行年表』さんの記事を辿れば、後期の天勝が”体技アックルバット”芸人を一座に加えていたことは確かだが。

意外なところから天勝が飛び出してきたイリュージョンの一幕。果たして真相は?

◇  ◇  ◇

加えて、この『週刊読売』の記事が不思議なのは、GLHが日本を離れアメリカでTHCとして再出発した1964年から、すでに2年は経過した1966年12月にリリースされたもの、であること。

実際に本文を通しで読むことが出来ないので、記事がどういうテーマどういう文脈で書かれたか判然としないが、なぜ離日から2年も経ってGLHに言及したのか、とても不思議でならない。それも、”特殊芸能人”というポジションで、日本人の間ではほとんど知られていなかった彼女たちのことを、だ。

それにしても、この記事は謎が多い。

■もうひとつの謎記事、細道の奥へ。

謎が謎を呼んで、さらに”謎記事”の話。探索テーマの2番目が待っていた。

2.『女ビートルズ』と銘打たれた雑誌グラビア記事の出所は何? 筆者はどんな人?(記事に掲載された画像は1964年5月17日に横浜で行われた公演の模様というが、掲載誌が不明)

である。これについても、山鳥の尾のしだり尾の如く長々し夜となりそーなので、次回に持ち越したい。

(【INTERMISSION】へ続く)

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