Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【B-6】浅草田島町、事務所所在地の現場を踏め!
■目指せ、浅草田島町! 探せ、事務所跡!
前回は探索テーマの8番目、
8.GLHの渡米前にミリタリークラブでの出演を依頼していた米兵が、彼女たちのマネージャーの名刺を現在も保管していた。その名刺に書かれた人物と事務所所在地の同定。
をすべて紹介するはずだったが、名刺で足踏みしたために「事務所所在地の同定」の一席が今回にズレてしまった。とにかく歩を進めよう。
◇ ◇ ◇
テーマ8で一番の懸案は、名刺に記されていた住所から、GLH/THCの所属事務所『旭興業株式会社』がいったいどこにあったのか、場所を同定することだった。名刺には「台東区浅草田島町96番地」の記載がある。
この「浅草田島町」という町丁は、1869(明治2)年に始まり、GLHが渡米した翌年の1965(昭和40)年7月31日に廃止されて60年が過ぎた。もとの街区全体が西浅草2丁目となっている。
さあ、事務所の場所を見つけるため、地図を片手に通りへ繰り出そう!
と思ったが、私は東京から約1,000㎞、Baugher氏はなんと約16,000㎞も離れている。お気軽に街歩きとは参らず、お手軽にググるで通りを征く。
■もともと旧「浅草田島町」は、どんな場所?
「浅草田島町」という街区、どんな由緒がある町だったのか、調べてみた。
ここは浅草六区のすぐ隣だったために芸人横丁と言われるほど芸能人の事務所が軒を連ねたところだったという。秦玉徳と旭天華がここに「旭興業」の看板を掲げたのも納得。
上記リンク先『西条昇の浅草芸能散歩』には、『十八番』という中華料理店とその路地についてのエピソードが書かれていた。それは大衆芸能好きには”避けて通れない”世界のこと。
1940年、浪界の大看板・二代目広沢虎造の映画出演を巡ってのトラブル。虎造のマネージメントをしていた吉本興行を差し置く形で、虎造が8+9+3兼興行主の「籠寅組」と契約。吉本のバックにいた山口組と抗争になり、浅草田島町にあった芸能事務所前で山口組二代目山口昇が襲撃されたという『浅草田島町殺傷事件』がそれ。
「ここだったのか」…………浪曲ファン、虎造ファンの私としてはなんとも”感慨深い”ロケーションでなんである。
■意外と早く場所が見つかった!、と思ったら。
まず場所探し、地図が必要だ。96という地番が入っている古い地図でないと皆目見当が付かない。そこで、なんとか地番入りの古地図を探し出し、Baugher氏に送付した。
その地図を元に彼が見つけ出してくれたポイントがここ。
現地と覚しい建物、店舗の外壁両側にご注目。Bickel氏のポートレートに写っている旭興業事務所の外壁ととてもよく似ている。Baugher氏は「ここではないか!」と言う。確かに同じように見える。
良かった、すぐに見つかって。安心していたら、Baugher氏からまたメッセージが飛んできた。
えええ?。急いでもとの地図を確かめたら、大正時代(1912〜1926年)の地図と96番の場所であった。最低な凡ミス。Baugher氏に無駄足を踏ませてしまった。申し訳なし。
しかし大正から昭和初期の町が様変わりしたのには訳がある。
1945年3月10日の「東京大空襲」で、第1照準点とされた本願寺付近を中心に浅草は甚大な被害を被った。そのため、戦後は再建の過程で地番が何度か入れ代わり地図ごとに異なるので同定がやりづらい。それにしても秦玉徳・旭天華家族は空襲の業火からどうやって生き延びることが出来たのだろうか、ふと、そんなことを想った。
■浅草双六、振りだしに。今度は正解マップが?!
改めて地番入り地図を探し始めた。東京各区の図書館には1960年代に作成された『東京都全住宅案内図帳』が収蔵されていて、住宅の特定には最適なようである。しかし、これもまた図書館に足を運ばねば見ることができない。
仕方なくネット検索を続けていたら、「台東区図書館/デジタルアーカイブ」のページが現れた。開くと、1960年の浅草田島町の地番入りマップだ。時期的にもこれで間違いない。
場所探しでBaugher氏に無駄足をさせたお詫び、私がググるで調べることにした。96番だった箇所をググるで見ると、Bill氏が言うとおり「建物が大きな交差点の近くではなく、ブロックの真ん中にあった」のであった。
それは、芸能ブログで見た中華料理店だった。旧96番地の角にあるこの『十八番(じゅうはちばん)』を調べると、資料によっては1950年代後半、遅くとも1963年に開業した老舗とある。ちょうどBickel氏の写真が事務所の前で撮られた頃だ。彼はこの店を記憶しているかも知れない。
■新しい場所と画像を、Bill氏に送ってもらったが。
私が送った画像をもとに、Baugher氏が目星をつけた地点について説明入りの画像を別途作成し、Bickel氏へ送ったと連絡が入った。
2枚の画像のアングルは私も確認していた。駐車場になった場所が怪しいというBaugher氏の読みに私も同感だ。さて、結果はどうか?
一夜明けたら、Baugher氏からメッセージが届いていた。
昔の下町の路地である。輪を掛けるように、Bickel氏にとっては”異国”、表札を探すのに精一杯でのんびり回りを見る余裕もなかっただろう。
■詳細な地図を発見! Baugher氏に送付したら?!
”ああ 見失ったあとの心残りよ 未練なのね 地図よ どうしてどうして あの事務所をあきらめたらいいの あきらめたらいいの”
未練がましい男である。もう一度『台東区立図書館/アーカイブズ』に建物の配置が判る詳細な地図がないかとまた探してみた。間抜けな話だが、それが出てきたのだ! 虎造師曰く、「馬鹿は死ななきゃ治らない」。
本当はこれを最初に送れば良かった。急いでBaugher氏にこの地図をポストした。
ところが。彼は画像を見てはくれた様子だが、しかし、反応が返ってこない。ピクリともしないとはこのこと。すでに前の画像でBickel氏から一度回答をいただいているし、何度も訊くというのはね。発見が遅かったか? 好機を逸したか?
◇ ◇ ◇
ところが翌早朝、Baugher氏から返信が飛び込んできた。
ちょうどこの稿を公開しようと、タグを入力していたところだった。作業を止めた。確認の結果がどうであれ、情報に漏れがあってならない。Bickel氏が地図を見た反応を待つことにしたのである。
結果はこうだった。
もう60年の時が流れたのだ。たとえBickel氏の記憶にある街の光景が霧に包まれてしまったとしても、致し方あるまい。証言していただいただけでもありがたい。
この街区の建物のどれかに『旭興業株式会社』とGLHの事務所が存在し、路地を探し回ったBickel氏がやっと表札を見つけて扉を叩いたのは確か、なのである。
というわけで。日米珍道中THC『奥の細道』も、Destinationに近づいてきた。
1964年、GLH5人はアメリカへと渡る。でも、彼女たちはなぜ日本を離れてアメリカへと渡り、THCとして永住する決心をしたのだろうか。
もちろんご本人たちに訊かねば確証を得ることはできない。しかし、当時の日本と米軍の状況からおぼろげならも理由として浮かんでくることがある。次回はそれについてお伝えしたい。