Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【A-5】なぜGLHの日本側露出が少ないのか?
■渡米前(GLH)と後(THC)で格段の差、日米のメディア露出度。
先に国会図書館国立デジタルコレクションで検索した結果、その時点で、Gay Little Heartsが1964年の渡米前に日本のメディアに露出した情報が『スヰングジャーナル』掲載のたった1件しか拾えなかったことは紹介した。
さて、最初の探索テーマはこれ。
1.渡米前、日本のメディアではGLHの露出がほぼない。現在の女性観とは違う時代とはいえ、女性姉妹5人組は記事ネタとしてChoiceしやすいと思われるが、一体なぜ取りあげられていないのか?
GLHたちが渡米しTokyo Happy Coatsに生まれ変わってからは、Roy Baugher氏のFBチャンネルで判るとおり、全米各地のメディアに、記事であれ広告であれ様々に露出している。
この露出の違いは、もちろんプロモーター側の力の入れ具合の差もあるのだろうけれど、太平洋を挟んだ圧倒的な情報格差にはもっと何か別の理由がありそうだ、と私は思った。
■かつて存在した、”特殊芸能人”という境界領域。
改めて”占領軍”と”芸能”というキーワードで、国会図書館国立デジタルコレクション内を徘徊していたら、一冊の本に出会った。
それは、1952年から1957年まで占領軍へ物資などの供給を担当していた調達庁が発行した『占領軍調達史』で、1955年から59年までに5冊が刊行されている。その3冊目「芸能・需品・管材」編に、なぜGLHのメディア露出が極度に少なかったのか、そのヒントが隠れていた。
同書の第3節「平和条約発効後における芸能提供」(102〜104p)によれば、多くの連合軍兵士が故国を離れて大挙来日し異郷の地で長く任務に服すという生活環境に加えて、欧米人がディナーの際にもエンタテインメントを必要とする度合いが日本人と比べてはるかに強いことから、当時の日本芸能界に未曾有なまでの芸能需要が生まれた、という。
そして筆者は1954年7月4日付の週刊誌『サンデー毎日』に掲載された”特殊芸能人”なる存在についての記事を引用する。
つまりGLHも、米軍基地慰問専門の芸能人やミュージシャンである「特殊芸能人」だった。それがために、一般の日本人とは接点が薄く、日本人向けの劇場やクラブに出演することが少なかったのでメディアの視線も届かなかったのだ、という推測が成り立つ。
雑誌『スヰングジャーナル』の記事で取りあげられたナイトクラブ『マヌエラ』での出演は、日本人客も出入りできた店だったからこそコラムの筆者にドラマーKeikoさんの評判が伝わったのではないだろうか。
■さらにGLH(=THC)の原点を探して。
さて。先の『占領軍調達史』から引いた『サンデー毎日』の記事の中に、”旭天華”という名前があったことに気付かれただろうか。
米軍基地だけでなく日本人の聴衆を相手に人気を誇ったという軽業師一座の座長だが、前回探索テーマに挙げた3つ目にその名が見える。
3.GLHが芸能活動を始めた当初は、アクロバットチームだった。アサヒシスターズ、アサヒテンカ、アサヒフェンカ(スペルミス?)という芸名だったのではないか? →彼女たちの芸能者としての出自は?
アサヒテンカとは旭天華のことであり、かつGLHがミュージシャンになる以前にアクロバットをやっていたというなら、彼女たちは旭天華の弟子だっただろうか? だからこそ芸名やサインに”アサヒ”を使っていたのではないか?
まずもって軽業師、旭天華とはいったい何者なのか?
◇ ◇ ◇
そのあたりも含めて、占領軍と特殊芸能人との関係を掘り下げるような書籍があるだろうかと思った。戦後占領史となると政治や経済、制度などの書籍は多いから。しかし、それは杞憂に終わった。
探してみると好適な2冊をすぐに発見できたのだ。どちらも、現在、都留文科大学比較文化学科教授を務めていらっしゃる文化人類学者・歴史学者の青木深教授の著作である。これだ!
最初の『めぐりあうものたちの群像』は、青木教授の博士論文の書籍化で、第35回サントリー学芸賞を受賞したもの。
次の『進駐軍を笑わせろ!』は、より芸能者サイドにスポットを当てた列伝的内容である。
そのまんま本稿と重なり合うテーマの2冊、どんな発見が待っているのだろうか。期待をしつつ、さっそくページをめくってみたが・・・。