
Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【Bonus Track 18】 SNプロ共同経営者 シャタック、最後の証言<4>。

(2016.09.12/Courtesy of Library of Congress、Veteran's Heritage Project)
本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成しています。合わせて、本稿日本語版および英語版は、インタビューを実施したLibrary of Congress、Imprints of Honorの許諾を得て作成しています。
■タイトル: アロンゾ・ベイン・シャタック コレクション
ナレーター: アロンゾ・ベイン・シャタック
インタビュアー: バーバラ・ハッチ(退役軍人遺産プロジェクト創設者)
場所: アリゾナ州ファウンテンヒルズ、米国
日付: 2016年9月12日
引用: 退役軍人遺産プロジェクト、バーバラ・ハッチ、アロンゾ・ベイン・シャタック。
アロンゾ・ベイン・シャタック コレクション。1944 年。個人の物語。
ー12.シャタック、日本でビジネスを始める。
BH: それで、なぜ日本に留まったのですか?
AS: 自分でビジネスを始める機会があったんです。
BH: どんなビジネスをしていましたか?
AS: そうですね、横浜にいた頃、私はシュライナーになり、横浜シュライナー・クラブの会長を務めました。私たちはグループとして、障害を持つ子供たちのために何かしたいと考え、建物ではなく、翼のようなものを建てたいと考えていました。鉄の肺(Iron Lung:人工呼吸器の一種)の資金を調達したいと考えていました。当時、日本にはそのようなものはありませんでした。シュライナー・クラブのメンバーの1人、実際には2人は、日本にビジネスで来ていた民間人でしたが、彼らは昔からのシュライナーでした。彼らは年配の男性でした。そして、彼らは、日本にはレスリングがないので、何人かレスラーが来てくれるかもしれないと提案しました。相撲はありましたが、アメリカ式ではありませんでした。お金を集められるショーになるだろうと。私はシュライナー・クラブの会長を務め、私たちはそれを実行しました。そして次に起こったことは、2度目の試みとして、ジョー・ルイスを連れてきたことです。シュライナークラブで彼と撮った写真があります。
AS: 彼を審判として連れてきて、ボクシングのエキシビションをやらせたんです。彼がチャンピオンシップで負けた後のことです。それから他のプロモーションに変化していきました。シュラインクラブの責任者として、私は責任者でした。それから、政府や陸軍とブッキングをしながら、いくつかのエンターテイメント、さまざまなタイプのエンターテイメントを引き受けないかとオファーされました。それは私にとってかなりいい話に思えました。面白かったので、夢中になりました。
注:シャタックが会長を務めていたシュライナークラブとジョー・ルイスの招致については、下記サイトでも言及がなされている。日本プロレス史の黎明を告げる興行にシャタックは関わっていた。

ー13.芸能プロダクション経営について
AS: 自分のブッキング代理店(注)を持っていました。ペレス・プラード、ルイ・アームストロング、インク・スポッツ、マーサ・グラハム、ジョニー・レイを連れてきました。彼らは大物でした。半年から1年に1回日本にやって来ました。劇場に出演させて、その後、彼らと一緒に陸軍ツアーをしました。それから、陸軍クラブのために、主に陸軍クラブや日本の劇場でショーをやるレギュラーのアーティストも雇いました。演技の種類にもよりますが。
注:このブッキング代理店こそ、シャタックが永島達司と共同で創業した「SNプロダクション」である。会社のネーミングはShattuck+Nagasimaという頭文字からと思われる。また米軍クラブのために雇われた”レギュラーのアーティスト”の一組が、Gay Little Heartsであった。
AS:そこから、当時まだ新しいものだったラジオの製作に携わるようになりました。私にはRCAの技術者だった親友がいて、彼は誰かと一緒にビジネスをしたいと思っていました。私たちはそれを製造するのではなく、自分たちの名前をつけて組み立て、輸出し、米国の輸入業者に販売していました。そして1960年に、私たちは本当にちゃんと利益を上げたいと思いました。当時、米国では75ドルくらいで売られていたからです。そして、日本では輸入業者から15~20パーセントほどの値段で売られていました。そこで私はニューヨークに行って自分のオフィスを開きました。そうしていたのですが、大企業、日本の企業が参入し始めました。利益率は圧迫されました。なぜなら、私たちは本当に日本の企業からものを買わなければならなかったからです。
BH: 部品とか。
AS: ええ。そして彼らはやって来て、彼らと競争できませんでした。そこから私はメキシコに行き、メキシコからアメリカに戻り、そしてブラジルに行きました。
BH: そして、その後もラジオ関係の仕事は続いていたのですか?
AS: いいえ。

ー14.日本を出国、メキシコ、そしてブラジルへ。

BH: つまり、軍隊でのお話ではないことは承知していますが、その頃はどんなビジネスをしていたのですか?
AS: ええと、私は会計士のためにメキシコに出入りしていました。会計士はニューヨークから来た2人の男性を後援して、メキシコシティにダイヤモンドカット会社を設立したのです。彼らはとても優秀なダイヤモンドカッターでしたが、ビジネスマンとしては非常に下手でした。ラジオ事業のために雇ったニューヨークの会計士のオフィスに私は机を置いていました。彼はブロードウェイ1890番地、コロンバスサークルのすぐそばにいました。彼はそこに1フロア丸々使っていました。それで彼は私に、1か月のうち10日間でラジオで作れるものをすべて売り、残りの時間は何もしないようにと頼みました。そこで彼は私に、彼のためにメキシコに行ってダイヤモンドのカットのビジネス面を手配するよう頼みました。そこで私は他の人と知り合い、ラジオ事業は価格状況のせいで下降線をたどり始めました。そして私はバトラー・ビルディング(バトラー・マニュファクチャリング)のフランチャイズを取得し、メキシコシティでバトラー・ビルディングのビジネスを始めました。
BH: それからブラジルでは何をしましたか?
AS: 私は日本の仏教寺院を建て、日本国外で最大の日本人コミュニティである日本人コミュニティに、火葬された遺灰を保管するためのスペース(納骨堂)を売りました。私たちは大きな公園を持っていました。有名な京都の金閣寺を真似したものでした。私はそれをそっくりに再現しました。外観は同じですが、内部は違います。
BH: それで、当時の寺院は京都の寺院と同じような外観だったのですか?
AS: その通りです。
BH: すごいですね。
AS: 私は2人の日本人、アーティストと呼んでいる大工を雇いました。コンクリートで建てて木で覆い、オリジナルと全く同じに見えるように覆いました。写真を見せてあげられますよ。
BH: そうですね、そうしなければなりませんね。この(収録用)テープを交換しましょう。
(中断)
AS: そして私がメキシコから戻ったとき、彼は私に彼の会社に来るように頼みました。私はカリフォルニア州フレズノにある子会社の社長で、ボストンにある親会社のエグゼクティブ・バイス・プレジデントでした。しかし私がフレズノにいたとき、隣人が大きなワイナリーで働いていました。すぐに思い出します。彼はそこのバイス・プレジデントの 1 人でした。そして彼は私にワイン・アンド・フード・ソサエティに参加するように頼みました。ご存知かどうかわかりませんが。国際ワイン&フード・ソサエティは18人から22人のメンバーで構成され、全員がさまざまな業界から参加することになっています。彼らは月に 1 回会合を開き、各メンバーが交代でディナーとワインを準備し、それを並べ、批評します。全員が、何が良かったか、何が悪かったかを言います。私がそんなことを言ったのはどういう意味ですか?
BH: ええ、そこにはイラン人はいなかったはずですよね?
AS: ええ、これが私がこのことに取り組むきっかけでした。ある人がいました。彼はシャー (モハンマド・レザー・パフラヴィー国王 (1919-1980)) のいとこだったと思います。彼はワイン学者で、フレズノ州立大学の教授として米国に来ました。フレズノには米国で最も優れたワイン学プログラムがあります。もちろん、バレーはブドウの産地です。彼は会員になりました。私たち全員が、彼の家で一度会ったことのある人がいましたが、残りの人はレストランを選んで、夕食のためにレストランとあらゆる手配をしました。しかし、彼が食べた夕食は、彼の家で召使いや配達人と一緒に食べました。彼は大学の教授で、大邸宅に住んでいました。でも、それはおかしかったです。彼が何だったかは覚えていないのですが、彼はシャーの親戚でした。
BH: 彼の名前はパフラヴィではなかったですね、シャーのように。シャーの名前はレザー・パフラヴィでした。
AS: パフラヴィ、それが彼らの姓でした。
BH: そうです。
AS: いいえ、彼の名前はパフラヴィだったと思います。ずいぶん昔のことです。1970年、1970年でした。
BH: ええ、シャーは70年代後半に追放(注:1979年のイラン革命)されました。私が去った後、革命が起こり、その時に彼は…
AS: ええ、彼は追放されたと思います。私は74年にブラジルに行きましたが、彼が追放されたときブラジルにいたと思います。私の時間の要素としては……..。

【Continued to 5】