薬物と差別--文化としての音楽--の巻
ミュージシャンが薬物で逮捕されても、その業績に対する僕の評価は変わらない。「あらら、捕まっちゃったか」という思いと、依存症から回復できるよう適切な治療を受けてほしいという思い、あとは薬物の入手で関わった反社会的な組織との関係をうまく断ち切れるといいけどな、という思いを抱くぐらいで、倫理的・道徳的には何も思わない。(覚せい剤はちょっと引くけど。)
音楽も聴き続けられる。
不倫や、酔っ払って公園で全裸になって「しんごー!」と叫んで世間を騒がせても、セーフ。
とはいえ、もう聴きたくなくなる場合もある。
まず、小山田圭吾関連の作品。
いつだったか、モルグモルマルモの移動の車内でCorneliusの話になったとき、クイック・ジャパンに掲載された小山田圭吾のインタビューを読んだことのある僕が「いじめクソ野郎の音楽は聴きたくないんだよなぁ」と言ったら、宇宙が「うわ、同じこと思ってる人いた!」と言っていたことがあって、ちょっとうれしかった。
他には、そんなに熱心に聴いていたわけではないけど、NOFXなんて二度と聴くものか!と思ったこともある。なぜなら、NOFXがRiot Grrrl(※1)を曲中で揶揄したという記述を本(※2)で目にしたから。
※1 Riot Grrrl - 90年代前半のパンクロックシーンの男性中心主義を問題化したフェミニズムとパンク思想のムーブメント。
※2 大垣由香、2005年、『riot grrrlというムーブメント――「自分らしさ」のポリティックス』遊動社 とっっっっっっっってもおもしろいのでぜひ。右のリンクから買えるみたいです。http://lilmag.org/?pid=2737397
どうして槇原敬之やASKA、岡村靖幸は聴き続けられるのに、CorneliusやNOFXが無理なのか。それは、「薬物」や「不倫」「酔っ払って公園で全裸になって「しんごー!」と叫んで世間を騒がせること」などは単なる違法行為で、「いじめ」や「フェミニズムを揶揄すること」は差別だからだ。
「差別」とは、他者の人格や存在の価値を貶めたり否定したりすることである。
音楽はひとつの文化であり、文化は個人や社会を豊かにするものである。
平和は文化で、戦争は文化の破壊だ。
「文化」がゲシュタルト崩壊してきた…。
こんな字だったっけ…?
文化。
あぁもうダメだ。
ともかく、差別は文化に反するものだ。
文化に反する差別主義者の音楽は聴きたくないのである。
僕は、あらゆる差別の根本には男性中心主義と異性愛中心主義があると考えているので、ジェンダーギャップの大きな現状を無批判に維持するような作品を聴くたびに、残念な気持ちになる。
そういう作品を一切聴かなくなるわけではないけれど、聴くたびに引っかかりを覚える。
と、ここまで自分が「聴けなくなる音楽」について書いてきたけれど、僕も作詞作曲歌唱などしている身である。てめーはどうなのか。
実は、作りながらすでに「これはどうなんだ?」と思っていた曲がある。
それは「KANPAI」という曲で、これは「君」に、イタリア語で乾杯を意味する「cincin」と言わせたい、という歌だ。
セクハラだ。
脳内ふじじA:ただ単に乾杯をイタリア語で言うだけだ!
脳内ふじじB:いや、乾杯をイタリア語で言う必要なくない?
脳内ふじじA:でも普段からcheers!って乾杯してるし!
脳内ふじじB:それならcheers!って歌えや!
脳内ふじじA:たしかに。
っていう話ですよ。脳内論破。
なんとかイタリア色を濃くして誤魔化せないものかとイントロのフレーズにイタリア国歌の一節を入れたり、間奏のギターの冒頭を「オー・ソレ・ミオ」にしてみたり、アレンジに苦心したことでなんか楽しそうで無邪気な曲にはなったけど、これでセーフになったとはいまも思えていない。ぎりぎりアウトなまま、だましだましやっている。
それでも最後に某有名歌手の名曲を茶化すことで、その某有名歌手のマチズモを無効化するというファインプレー?
いや、珍プレー。
おあとがよろしいようで。
ふじじ