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メルヘンと錬金術と資本主義(ゲーテからエンデへ)

以前、「ゲーテ「メルヒェン」とシュタイナーの解釈」という投稿をしました。

 「メルヒェン」は、ゲーテ作品中でも最大の謎とも言われるメルヘン形式の作品で、ゲーテ自身は「わたしの黙示録である」とも表現しています。

そのストーリーを一言で表せば、河の両岸に分かれていた「若者」と「百合姫」の二人が、「緑の蛇」や「老夫婦」の活躍で、両岸の間に再建された聖堂で結婚して王と王妃になり、両岸の世界に橋が掛かって結びつけるという物語です。

*「メルヒェン」のより詳しいストーリーは、下記を参照してください。↓

この物語に対するシュタイナーの解釈は、超感覚的世界と感覚世界を結びつける、人間の成長の物語である、とする神秘主義的な解釈でした。

ところが、シュタイナーは一切語らないのですが、「メルヒェン」には、明らかに錬金術的な象徴を読み取れます。

 *錬金術については、こちらを参照してください。↓


本投稿は、まず、この「メルヒェン」に読み取れる錬金術的解釈を取り上げます。

次に、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」が、「メルヒェン」に影響を受け、そのモチーフや錬金術的な象徴を取り入れていることを取り上げます。

次に、ゲーテの「ファウスト」にも、錬金術的解釈がなされているので、その3つの解釈を取り上げます。
一つは、「ファウスト」に近代人の自我膨張を見た、深層心理学者ユングの解釈です。
もう一つは、この投稿に際して、私自身がやってみた錬金術的解釈です。
3つ目が、資本主義が錬金術の発展として表現されている、と見たスイスの経済学者ハンス・クリストフ・ビンスワンガーでの解釈です。

最後に、このビンスワンガーの解釈の影響を受けて、エンデが創作したメルヘン的戯曲「ハーメルンの死の舞踏」を取り上げます。
そして、エンデは、彼自身の貨幣観に基づく作品(「モモ」など)を他にも書いているので、それらとの比較もします。


本稿は、基本的には、川村和宏「ミヒャエル・エンデの貨幣観」(三恵社)をベースにしていますが、そこにないテーマや私見を加えて書きます。




「メルヒェン」の錬金術解釈


ゲーテは、二十歳前の頃に、生死の境を彷徨う病気に陥り、主治医から錬金薬を投与されて治った経験があります。
ゲーテは、その後、自分自身で錬金術の実験をしましたが、失敗しました。

また、ゲーテが、ヴァレンティン・アンドレーエの「化学の結婚」や、ゲオルグ・フォン・ヴェリングの「魔術的カバラと神智学の書」を読んでいたことが分かっています。
前者は、薔薇十字啓蒙運動のきっかけになった、錬金術の象徴に溢れた小説で、後者は、有名な錬金術の研究書です。

ですから、ゲーテの「メルヒェン」に、錬金術の象徴が使われていても、不思議ではありません。

錬金術では、男性原理である「硫黄」と女性原理である「水銀」、そして、両者の媒介原理である「塩」の三原質を重視し、それらを、王、王妃、僧侶などで象徴します。
王と王妃は結婚し、僧侶はそれを取り持つ存在です。

「メルヒェン」では、これら三者が、「若者」、「百合姫」、「老夫婦(特に、ランプを持つ老人)」で表現されていると解釈できます。

「若者」は、赤い水酸化化合物としての「硫黄」であるので、緋色(赤に近い)のマントを羽織っています。
「百合姫」は、白い塩酸としての「水銀」であるので、白い百合で表現されます。

最初、「若者」は「百合姫」と接触した時に死んでしまいますが、これは、媒介である「老夫婦」を伴わなかったことの表現です。
二度目には「老夫婦」を伴って、2人は王と王妃として抱き合います。

ゲーテは、「ファウスト」で、主人公の弟子が錬金術でホムンクルス(人造人間)を作る場面を描いています。
この場面では、「赤獅子」と「百合」を結婚させ、「若い女王」が現れると表現しています。
「赤獅子」が「硫黄」、「百合」が「水銀」に当たります。

このような対応が存在することからも、「メルヒェン」に錬金術の象徴表現が使われていることが裏付けられます。

三原質    メルヒェン      ファウスト
・硫黄 :緋色のマントを羽織る若者:赤獅子
・水銀 :百合姫         :百合
・塩  :老夫婦
・ウロボロス:緑の蛇

また、「メルヒェン」で重要な登場人物である「緑の蛇」は、死んだ若者を復活させますが、その時、尾を噛んだ姿勢の「ウロボロスの蛇」となります。
その後、「緑の蛇」は、両岸を結ぶ橋になります。
「ウロボロス」は、錬金術では良く使われる象徴で、二原理の統一などを表現します。

川村和宏は、「緑の蛇」の「緑」を、錬金術で重視される素材である「瑠璃(ラピスラズリ)」と解釈しています。
ですが、ラピスラズリは青色なので、錬金術の奥義書とされる「エメラルド・タブレット」と関係するのかもしれません。
実際、作中で蛇は、エメラルドなどでできた橋になります。

「緑の蛇」は、最後には、何千もの輝く宝石に変化しますが、これは、「孔雀の尾」に象徴される、物質が様々な色になる、錬金術の最終的な段階を示します。

また、隔たった両岸を渡す「渡し守」は、最初の段階の「黒化」をもたらします。
「老婆」が「渡し守」との約束のために川に腕をつけると、黒くなることは、これを示します。

他にも、錬金術の象徴を見つけることができるでしょう。


このように、ゲーテは「メルヒェン」で錬金術の象徴を使っているのですが、だからと言って、「メルヒェン」が錬金術の思想を表現しているとは限りません。

錬金術の象徴のモチーフを使いながらも、ゲーテ自身の思想を表現していると考えた方が良いのではないかと思います。


「はてしない物語」の錬金術解釈


ミヒャエル・エンデは、「私の読本」で、25冊の影響を受けた本を紹介しています。
その中には、アンドレーエの「化学の結婚」や、ゲーテの「メルヒェン」も含まれています。
ですから、エンデが錬金術や「メルヒェン」に大きな興味を持っていたことは間違いありません。

彼の代表作である「はてしない物語(ネバーエンディング・ストーリー)」でも、錬金術の象徴を使い、「メルヒェン」の登場人物のモチーフを使っています。
ただ、「メルヒェン」の登場人物のモチーフを使っていることを指摘している文章は、読んだことがありません。


「メルヒェン」では川の両岸が舞台で、その橋渡しがテーマとなりますが、「はてしない物語」では、これが、想像力の世界であるファンタジーエンと現実世界になります。

主人公であるバスチアンと、彼が「月の子」と名付けたファンタジーエンの女王「幼ごころの君」は、「硫黄」と「水銀」でしょう。

バスチアンは赤いジャケットを着ているので、「若者」と同じ赤の象徴性を持ちます。

一方の、「幼ごころの君」は、白いドレスを着ているので、「百合姫」と同じ白の象徴性を持っています。
もちろん、錬金術では、「水銀」は月で象徴されます。

そして、バスチアンを助けるアトレーユと幸いの竜フッフールは、「塩」です。
二人は、バスチアンをファンタジーエンにつれていくと同時に、現実世界に返すので、両世界の媒介的な役を努めています。

アトレーユは、 緑の肌族の少年なので、「メルヒェン」の「緑の蛇」と同じ「緑」の象徴性も持ちます。
他方、「竜」のフッフールのは、「蛇」と同じ象徴性を持ちます。

「幼ごころの君」からバスチアンに渡される金のメダル「アウリン」は、ファンタジーエンで様々なことを実現させる魔術的道具です。
ここには、白と黒の蛇のウロボロスが描かれています。
最後の場面では、二匹の蛇がメダルの外に現れて、その間に「生命の泉」が生まれて、バスチアンを復活させます。
これは、「メルヒェン」と同じです。

・硫黄:バスチアン、グラオーグラマーン
・水銀:幼ごころの君(月の子)、アマルガント
・塩 :アトレーユとフッフール、老夫婦
・ウロボロス:アウリン

炎の冠のようなたてがみのライオンである「グラオーグラマーン」も、「硫黄」です。
「硫黄」は可燃性を特徴とするので火と関係し、ライオンは王を象徴します。

また、銀細工の都市「アマルガント」は、「水銀」です。

そして、「メルヒェン」の「塩」である「老夫婦」に相当しそうな、「エンギウック」と
「ウルグル」という老夫婦も登場し、アトレーユに助言します。

他にも、「メルヒェン」には「渡し守」が登場しますが、「はてしない物語」の「カイロン」というは、ギリシャ神話の「渡し守」である「カロン」から来ているのでしょう。

そして、「メルヒェン」には「鬼火」が登場しますが、「はてしない物語」にも「ブルップ」という鬼火が登場します。


このように、「はてしない物語」には、「メルヒェン」の登場人物からヒントを得た人物が多く登場し、そこには錬金術の象徴があります。
ですが、両物語には構造に違いがありますから、象徴するものが同じとは限りません。

*ただし、エンデはシュタイナーにも影響を受けていて、「メルヒェン」のシュタイナーの解釈も知っていまいた。
ですから、「はてしない物語」の中には、「メルヒェン」の錬金術解釈だけではなく、シュタイナー解釈も盛り込んでいるのかもしれません。


ユングによる「ファウスト」の錬金術解釈


「ファウスト」はメルヘンではありませんが、象徴性、寓意性が高い物語です。
先ほど書いたように、この作品は、作中でファウストの弟子が錬金術を行う場面があります。

これとは別に、ユングは「ファウスト」が錬金術の物語であると書いています。

「錬金術はゲーテの『ファウスト』において最後の一大頂点をきわめ、かくしてまた歴史的な転換期を迎えることになったのである。ゲーテの『ファウスト』は最初から最後まで隈なく錬金術的思考に彩られている」

「心理学と錬金術」

ユングは、『ファウスト』に、近代人の意識の問題、その限界を読み取ったので、これについて見てみましょう。


ユングは、「ファウスト」に登場する「パリス」と「ヘレナ」の男女のカップルが、錬金術の「男性原理(硫黄)と「女性原理(水銀)」に当たると解釈します。
ユング理論では、「アニムス」と「アニマ」の元型に当たります。

 *ユングの錬金術論については、こちらを参照してください。↓


ファウストは、皇帝に世界一の美男美女を見たいと言われて、「パリス」と「ヘレナ」を探しますが、自分がヘレナを奪いたいと思ってしまいます。

ユングは、これを、ファウストが「パリス」という「アニムス」の元型に自己同一化し、自我膨張を起こしたと批判します。
つまり、自分の中にある2つの性質として受け取って、個性化の過程を進むことができなかったのです。

また、ファウストは自分の事業を進めることに夢中になって、老人「フィレモン」と老婆「バウチス」と、その客を殺してしまいます。

「フィレモン」は、ユングにとって「老賢者」の元型の代表です。
ギリシャ・ローマ神話では、二人は、旅人に身をやつした神を心を込めて歓待し、その報恩として洪水から命を救われた人物です。

ユングは、神を客として受け入れるこの二人を、元型に一体化せずに受け入れることの象徴と見なします。
ですから、ファウストが二人を殺したことは、元型への一体化・所有という失敗を意味します。

ユングは、そうは書いていませんが、この二人は、錬金術の「塩」の役割に当たる存在と考えていたのかもしれません。
「メルヒェン」では、老夫婦が「塩」の役割を果たしていました。

・硫黄:パリス       :アニムス
・水銀:ヘレナ       :アニマ 
・塩 :フィレモンとバウチス:老賢者

ただ、「ファウスト」では、ファウストは死後に救われます。
ゲーテは、近代人の限界を描きましたが、ユングの言うように必ずしも批判一辺倒ではないと思います。


ファウストにおける4大元素と塩


ユングが書いていない、私見による錬金術解釈を書きます。


ファウストが、初めて「ヘレナ」の霊に触れた時、彼女は爆発して消えてしまいます。
これは、「メルヒェン」で「若者」が最初に「百合姫」に触れると死んでしまうことと似ています。
つまり、「塩」という媒体の存在が欠如しています。

その後、ファウストの弟子が作った「ホムンクルス」の物語が語られます。
メフィストは「ホムンクルス」に、ファウストを「ヘレナ」へ導くことを依頼します。

ちなみに、「ホムンクルス」は、アンドレーエの「化学の結婚」でも登場しますが、これは最初、魂を欠いた体だけの存在でした。

ですが、「ファウスト」における「ホムンクルス」は、まったく逆です。
純粋な知的存在で、完成した肉体性を持たなかったため、それを求めます。

彼は、入るべき物質を求める「世界霊魂」のようです。
おそらく、望まれるべきは、4大元素、あるいは、三原質の調和の取れた体でしょう。


「ホムンクルス」は、体を求めて、最も根源的な物質だと信じた「水」のエレメントである海に向かいます。
そして、海の女神ガラテイアに惹かれて、彼女が乗る貝に接触し、海を照らしながら死んでしまいます。

この時、彼は、炎(火のエレメント)となっています。
「ホムンクルス」の意志、欲望が、「火」なのでしょう。

「ホムンクルス(火)」が海(水)を求めることは、ファウスト(硫黄)が「ヘレナ(水銀)」を求めることと、パラレルです。
そして、接触によって死ぬことも、ファウストと「ヘレナ」の失敗の繰り返しです。

この第二幕の最後は、皆が四大元素のすべてを誉め讃えることで終わります。
では、「土」と「風」のエレメントはどこにあるのでしょうか?


この後、ファウストは「ヘレナ」を手に入れます。
「ホムンクルス」は、ファウストに媒介としての「塩」、つまり、肉体、現実の必要性を示したことが、幸いしたのでしょう。

ですが、ファウストが「ヘレナ」との間にもうけた子「オイフォーリオン」も死んでしまいます。
彼は、より高みを目指そうとして、空中(風のエレメント)へ飛び立って、地上(地のエレメント)へ墜落します。
そして、冥界に行った彼は、寂しがって「ヘネナ」を呼び、ファウストは「ヘレナ」も失います。

「ホムンクルス」と「オイフォーリオン」の2人で、4大元素が揃うことになります。
ただ、「風」と「地」のエレメントに関しては、作中での暗示が弱いので、私の考えすぎかもしれません。

・硫黄(火):ファウスト、ホムンクルス
・水銀(水):ヘレナ、ガラテイア
・塩    :ホムンクルス(火、水)、オイフォーリオン(風、土)


ファウストは、この後、干拓という一大事業に向かいます。

ところが、ファウストの干拓事業には、海(水)による海岸(地)の侵食を止めるという思いがあります。
ここには、自然な4大元素のバランスを破ることが暗示されているのではないでしょうか。

また、先に書いたように、ファウストは結果的に老夫婦を殺してしまうのですが、これは、「焼き」殺すという形でした。
これは、ファウストの強すぎる欲望=「火」を示しているのかもしれません。


ヴィンスワンガーによる「ファウスト」の錬金術的資本主義解釈


ユングよりも興味深い形で、「ファウスト」に錬金術を読み取った人物に、スイスの経済学者ハンス・クリストフ・ヴィンスワンガーがいます。

彼は、ゲーテが、資本主義(貨幣経済)を錬金術の発展型と考えて、それを「ファウスト」で表現した、と解釈しました。
「ファウスト」に、近代経済成立のドラマを読み解いたのです。

彼は「金と魔術:『ファウスト』と近代経済(原題:貨幣と魔術)」(1985)で、この解釈を行っているのですが、この著作の出版には、エンデが手助けをして関わっていました。
そして、エンデは、このヴィンスワンガーの解釈の影響を受けて、「ハーメルンの死の舞踏」という戯曲を書きました。


ファウストは、皇帝のアドバイザーとして、紙幣の発行を提案し、国の経済を立て直しました。
その時、地下に眠る金などの財宝を紙幣の担保にしました。
この担保としての金は、未来の可能性でしかないので、金兌換紙幣とも言えないものです。

メフィストは、この紙幣の発行について、「魔術」と呼び、「お金の幽霊」についても言及しています。

先に書いたように、「ファウスト」には、錬金術を行う場面があります。
また、作中の登場人物である早取男が「赤い金」と発言していますが、これが完成を意味する錬金術的表現であることから、ヴィンスワンガーは、ゲーテが貨幣経済全体を錬金術として表現している、と解釈しました。

そして、錬金術の三原質に対応する貨幣経済の要素を次のように分析します。

まず、紙幣の流動性が、「水銀」に当たります。
地下に埋蔵されていた金が、紙幣として流通することがこれです。
流動性は「水銀」の特徴です。

次に、貨幣が資産として占有されることが、「硫黄」に当たります。
この固定性が「硫黄」の特徴です。
「ファウスト」においては、皇帝の権威や、皇帝が戦う僭主やその擁立者である有力者の存在がこれに当たります。

そして、貨幣が、現実資本としての生産手段に投資されることが、「塩」に当たります。
媒介たる物質性は、「塩」の特徴です。

ですが、ファウストがアドバイスした国には、この生産への投資という「塩」が欠如していたため、紙幣の増発が、やがて経済の破綻へと向かいました。
メフィストは、「幸福が日々の稼ぎとつながっていることが 馬鹿者どもには少しも分からない。 奴らが賢者の石を持っていても、 それはただの石ころさ。」と語り、労働の欠如を嘲笑います。

「ヘレナ」と「ホムンクルス」の物語はこの後に挟まれています。

そして、ファウストは、自分の領土での干拓という生産手段を作る一大事業の運営に挑みます。
ヴィンスワンガーは、経済の最終成果としての一大事業を、「賢者の石」と考えているようです。

・水銀  :通貨発行(流動性)
・硫黄  :富の占有(固定性)
・塩   :生産手段(媒介性)
・賢者の石:一大事業(最終成果)


錬金術には、物質を成長させるという側面と同時に、精神を成長させるという側面があります。
「ファウスト」も、ファウストが紙幣の発行を提案し、一大事業に挑戦をするという経済的な側面を描く中で、ファウストの精神的な成長、欲望の成長も描いています。
この点でも、錬金術的です。


「ハーメルンの死の舞踏」の錬金術的資本主義解釈


エンデ晩年の戯曲「ハーメルンの死の舞踏(原題:鼠捕り男)」(1993)は、先ほど書いたように、ヴィンスワンガーの「ファウスト」解釈の影響を受けた作品であり、エンデが重視したテーマである貨幣論を扱った作品です。
そして、これは、「ハーメルンの笛吹き男」を題材に、それを貨幣経済の問題に焦点を当ててリメイクした作品です。
*「笛吹き男」の原語は、「鼠捕り男」です。

「ハーメルンの死の舞踏」は、以下のような物語です。

ハーメルンの有力者は大鼠像を崇めています。
この像は回転していて、一回転する度に、金貨一枚と鼠である死の霊一匹を生み出します。
この鼠の死霊によって、市民はペストのような病で全滅しそうになります。
有力者は、笛吹き男に鼠を追い払う依頼の契約をします。
ですが、有力者は大鼠像を手放さず、笛吹き男を捕まえて笛を奪いますが、市長の娘が笛吹き男を助けます。
笛吹き男に導かれた子どもたちだけが、黄金の光の中に入って行きましたが、他は全滅してしまいました。

この物語には、貨幣の無限発行と貨幣への信仰、そして、有力者による富の占有、つまり、「水銀」と「硫黄」を描きます。
ですが、「ファウスト」で描かれた生産手段への投資という「塩」は描かれません。

エンデは、ヴィンスワンガーの理論をよく知っていたので、意識的に「塩」を描かなかったと推測されます。
それは、貨幣に対する信仰、欲望の問題に焦点を当てて、観客、読者に行動を変えることを訴えるためでしょう。


エンデは、この作品やヴィンスワンガーの書籍より以前に、短編集「鏡の中の鏡」(1984)の「駅の大聖堂…」で始まる物語でも、貨幣の無限発行による破綻を描きましたが、ここでは、「硫黄」も描いていませんでした。
ですが、この物語では破綻へのカウントダウンがなされているので、時間もテーマになっています。

エンデは、経済学者のシルビオ・ゲゼルの影響を受けて、自然の存在、商品が無常性を持つのに対して、貨幣が永遠な存在であり、さらには、一般に増殖するプラスの利子率を持つ存在であることを批判し、貨幣は時間とともに価値を減らすべきと考えました。
これは、マイナス利子率と似た効果を持ちます。

エンデの代表作の一つである「モモ」(1973)も、時間をテーマにし、時間銀行が精神的に豊かな時間を奪ってしまうことを描きます。
時間銀行は時間に利子をつけるので、人々が利子を求めて時間を効率化することで、有機的な生命としての時間の豊かさが失われるのです。

利子や利潤は時間の関数であり、時間のテーマは、利子のテーマと重なります。

この物語の中では、後ろ向きにしか進めない「さかさま小路」が登場し、ここでは、銀行側の人間が消滅してしまいます。
これは、時間の逆流、つまり、マイナス利子を、貨幣価値の減衰を表現しています。


エンデやゲゼルが、貨幣が時間とともに価値を減らすべきと考えた、本来の理由は、貨幣が資産としての性質を持ち、特権的な存在となることを否定するためです。

これは、ヴィンスワンガーの理論で考えれば、「硫黄」を排除して、「水銀」を重視することです。

ですが、資産としての価値をもたなくなった貨幣は、それを持つものに特権的な存在としての座を譲るので、流通性である「水銀」も失ってしまいます。
ヴィンスワンガーも、プラス利子自体を否定はしません。

エンデが、価値が減衰する貨幣(マイナス金利)の問題を「鼠捕り男」で描かなくなったのは、貨幣経済の問題を、別の部分に求めるようになったからでしょう。


*主要参考書
 
・「ミヒャエル・エンデの貨幣観」川村和宏(三恵社)
・「心理学と錬金術」C・G・ユング(人文書院)
・「金と魔術:『ファウスト』と近代経済」ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー(叢書・ウニベルシタス)

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