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NOTEでのオリジナル記事

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#ゾクチェン

ハタ・ヨガの起源とヤントラ・ヨガ

当投稿では、身体を使ったヨガである「ハタ・ヨガ(タントラ・ヨガ)」の起源が仏教にあることを紹介します。 そして、それは、「ヤントラ・ヨガ」と呼ばれる動きを伴ったヨガとして、現代までチベット仏教で、ゾクチェンとともに伝承されています。 この「ヤントラ・ヨガ」は、故ナムカイ・ノルブ・リンポチェによって1970年代に初めて欧米に紹介され、彼が率いた団体で広められています。 最後に、「タントラ・ヨガ」やゾクチェンの修行の様子を描いたルカン寺の壁画を紹介します。 体を使わない古典

虹の身体と光の脈管:仏教における身体の錬金術的変容

昨年末に『虹の身体』長沢哲(ビイング・ネット・プレス)という書籍が出版され、私にとって新たな知見があったので、改めて、「虹の身体(以下、虹身と表記)」に関する当稿をまとめます。 後期密教では、経典や宗派によって、様々な霊的身体を獲得したり、肉体を霊的身体に変容させたりすることが目指されました。 それは、現代に至るまで実践され、実際に実現されてきたようです。 中でも、「光の脈管」と表現される特別な脈管(ナーディ)を使って、肉体を虹の光のような「虹身(光身)」に変容させるゾク

雑念から創造を引き出す瞑想法

人は何かに集中していても、あるいは、何も考えないようにしていても、心には、しょっちゅう「雑念」が生まれます。 ほとんどの瞑想法では、この「雑念」は追い払うべきものです。 この投稿では、まず、仏教各派のいくつかの瞑想法を取り上げて、その「雑念」に対する態度の違いを比較し、そこに「雑念」に対する可能性を探ります。 その後、いくつかのラディカルな心理療法をヒントにしながら、「雑念」に意味を見出し、それと向き合い、創造的な成果を生み出すための、広い意味での瞑想法を考案します。

仏教と野生の思考:中沢新一と清水高志の対称的アプローチ

中沢新一は、仏教と、レヴィ・ストロースの言う「野生の思考」、あるいは、「神話論理」とに共通する土台があると主張しています。 また、清水高志は、仏教哲学に、「野生の思考」と同種の思想があると主張しています。 両者は、ともに仏教と「野生の思考」の関係について論じているのですが、両者のアプローチはまったく対称的です。 本稿は、この違いをテーマにします。 一言で言えば、中沢が非言語的な心の働き(無分別智)を重視して、仏教と「神話論理」の違いを主張しているのに対して、清水は仏教の無

あるがまま - 仏教の極限

初期の仏教は、家族も社会も捨てる出家主義であり、心身の止滅を目指すという、徹底的に現世否定的な思想でした。 その後の仏教の歴史には、仏教でありつつ、現世肯定的で、創造性を評価する思想、「あるがまま」を肯定する思想へと、挑戦した潮流があります。 これらの潮流は、ゾクチェン(大円満乗)、後期密教、禅、修験道などで、仏教の奥義と呼ばれることもある思想を展開しました。 ですが、その一方で、現世肯定志向の潮流の中には、私見では、仏教としての一線を越えてしまったものもあると思います

仏教諸派の哲学と瞑想実践の違い

仏教各派、具体的には、部派仏教(=声聞乗、特に上座部)、大乗顕教(=菩薩乗、特に中観派、唯識派)、密教(=金剛乗、特に後期密教)、ゾクチェン(=大円満乗)、という4派における、哲学(教義)と瞑想法(実践)の違いについて、簡単かつ分かりやすく、まとめて紹介します。 また、釈迦の思想に近いと思われる最古層経典(スッタニパータ4・5章)や、すでにそこから離反している初期仏教(原始仏典)についても、少し触れます。 短くまとめたものですので、アバウトな記述になります。 目的の違い