【Sacrifice】
いま湯船に浸かっていて、ふと思ったことを綴っておきます。
昨年の4月から自分自身には幾度となく言い聞かせてきたことがあり、いま感じていることは「終わってねぇな」という一言に尽きていて、それを思えばただただ苦しくなる自分と、なんだか俯瞰してケタケタと笑う両方の自分が居て、これもまた赦せる兆しなのかなと思っています。
「自己犠牲」、
そう思えば少しは気が紛れます。
昨年の春に昇格を逃し、上がれた人を羨む自分が心底イヤになり、その行き場を失った怒りをどう扱っていいのか誰にも相談できず。
その人にも家族が居る。
自分がこうなったからこそ、彼はその位置に迎えられた。
つまり、生贄として差し出された自分には何らかの価値があるんだ。
いや、
でも、
でも違いました。
それら全てが幻想だったのだと、今はやっと気づける所まで辿り着けた気がします。
目の前で起こったことは確かに自分自身が体験したこと。
「え?」「幻想だなんてよく意味がわからない。」
そんな声が聞こえてきそうですね。
わかりますよ。すごく。
何度も問い直しました。
「それは本当にやりたかったことなのか?」
どうも違ったようです。
なぜならば、思考で出した答えだから。
『思考は自分ではない』
これまた混乱を引き寄せることになるのは承知しています。
思考は自分ではないと思います。
そこから導き出される答えは、常に過去の自分が会得したものから導き出されるもの。それは自らの「判断」の基準とされ、その瞬間その瞬間に一つづつ決められてきたこと。
そして思考は自分が、思考しようと思い浮かび上がるものではないと知ったからです。
どうでしょう?
一分間、思考を止めてみてください。
いかがでしょう?
少なからず不自由さを感じませんか?
そして、気づいてみて欲しいのです。
浮かび上がる数々の思考は、外側からの影響を多分に受けているはずです。
例えば、
「一分間」
「思考を止めてみてください」
この『言葉』に反応していませんか?
自らが思考しよう。
そう思って思い浮かべられることって実は無いはずです。
つまり、思考は自由に扱えていない。
という結論に「わたし」は至りました。
思考から導き出された答えは、わたしが出した答えではない。そして、そこから見える景色を少しだけお話させてください。
「じゃあ、何を根拠に答えを出しゃぁ良いんだ?」
その答えはとてもシンプルでした。
それはこういうことです。
「自然に浮かびあがってきたもの」(誰の言葉にも影響されない環境において出てきたもの)
その、ふと感情を伴って自分の中から出てきたもの。
それを大切にすることにしました。
これは、『やりたいことをやる』
ということに行き着きます。
でもこれは決してゴールではありません。
そしてスタートでもないのです。
ここに『在る』、わたしはここに在る。
ただそれだけ、それだけで本当にわたしたちは幸せなのです。
冒頭の「終わってねぇな」
これもまた、幻想です。今日も職場で一日を過ごした、「自分」だと思っている思考が導き出したものだから。
そう思えた時、はじめて生贄から解放され自由に生きられる。そんな気がしました。
そしてそれは清々しい気持ちで、誰かを幸せにするために存在したいという感情を伴って『現れたもの』。
いかがでしょうか?
さて、
そろそろのぼせてしまうので湯船から出ますね。