「水、水を見る」
熱海という少し足を伸ばせばいつでも来られる場所に来ています。今回なぜか51歳にして初めて宿泊します。
JR東日本の上野東京ラインで自宅の最寄り駅から乗り換えなしで直通で来られるようになり、2通りしかないグリーン車の料金形態を上手に利用して追加料金800円で快適な旅がはじまりました。
私が住む埼玉は海無し県であり、草を食んで病気を治す県民にとっては茅ヶ崎辺りから海が見えはじめただけで、テンションはすぐにマックス状態になります。
私はここ数年、鉄道が旅の移動手段の要になっています。理由はとても簡単で、運転する手間が省ける上にその空いた時間を読書に費やせるという、一挙両得の旨味を体験してしまったからです。
オマケに呑める。
今日は取っておきの1冊をリュックに入れてきました。それは「井筒俊彦と二重の見」です。すでにその本は捲るページ捲るページ、蛍光ペンや赤いポールペンであちこちにラインが引かれており、かなり読み込んでいる印象を与えています。
ところが正直なところ内容のほとんどを理解出来ておらず、まだ半分程度しか読み進めていません。しかし著者の西平直氏の展開する井筒俊彦の読み解き方は、さらに難解な名著『意識と本質』を非常に丁寧にわかり易く解説しており、言わば意識と本質の入門書と言っても差し支えないほどに私にとっての座右の書となっています。
そして今日も左手に電車の車内から見える海を横目に、本書に出てくる現成公案の道元が遺した言葉「水、水を見る」に対する考察の件を読んでいました。
水、水を見るという謎めいた言葉は全く理解に苦しみますが、今景色に写し出される海に当てはめた時、ふと私たち人間の関係性にとてもよく反映された言葉だなと思いましたので、今日は少しそのことについてお話しします。
ひとまず皆さんは「水、水を見る」と聞いて、まず何を考えますか。
水が何を見るのか、そもそも水は意識を持っていないものであり、いわゆる視覚もあるはずが無い。なのになぜ「見る」なのか。
疑問は瞬く間に心を支配しはじめると思います。
しかしこの状態を細かく観察していくと、私たちの思考の流れの中に、ある気づきを発見することが出来ると思います。
それは自分の中で定義付けをして、その定義したものを基準にして答えを導き出そうとする働きです。
この様な動きを本書で具体的に結びつける文章は見当たりませんが、個人的には本書内に出てくる「分節化」と呼んでいる状態に近いように感じましたので、以下はその解釈に基づき書き進めていきます。
分節化とは文字通りに解釈するならば、何かをわけ隔てることと理解できそうです。 例えるならば製氷皿に水を注ぎ、冷凍庫に入れて凍らせるようなイメージです。
「何か」を型に当て嵌めて凝固させること。それによりその何かは輪郭を帯びて他のものとの区別を鮮明にさせることが可能になります。
そこには対比が現れ比較が存在します。単純な話しで説明するならばこの分節化された状態においては「良い」と「悪い」の二極を対比させることができます。
この二元性こそが分節化の役割であり効果でもあります。
しかし本書ではこの分節化の先に、さらに二段階の状態変化があり、それは往復の動きのようにも見える世界『二重の見』という境地があると解説します。
まずその次の段階とは『無』分節化です。
何者にも礙(さまた)げられない、言わば相互に干渉されない状態であり、例えるならば先ほどの製氷皿で言うところの氷が溶けてしまったイメージです。
凝固点が無くなった世界。
それが無文節であり、すべてが一体なのです。
話しをさらに進めます。その無文節の状態で終わりではありません。今度は再構築をします。
再構築とは再び分節化させるのです。しかしこの場合の分節化は最初の分節化とは意味合いが違い、両方の状態をそこに見る。つまり無文節に分節を透き通してみる状態です。
同時に見るということです。
そろそろ小田原を過ぎて山間部のトンネルと、海が見える景色とが交互に見えはじめましたので、チラっと見えるその海に私は何を見たかをお伝えします。
私は今回この二重の見を読むことで、私たちを海の水に例えてみました。
そのことにより大きな気づきを得られました。
海水は全体として「海水」です。
でも凍らせれば凝固して分別がつくようになります。
北海道に例年流れ着く流氷のようなイメージです。
でも凍って形がバラバラになっても、やはりそれはすべて「海水」です。
もし海水に意識があり、個別の「海水」が現れたとしましょう。今日のテーマでもある、「水、水を見る」です。
元々が一緒のものです。
それぞれが意識を持っているから、知る者と知られる者という状態が生まれました。二元の世界の出来上がりです。
でも見た目には同じ海水でどこからどこまでがAという海水なのか、どこからどこまでがBという海水なのか、区別がつかないのです。
でも私たち人間の身体は視覚的に別個に別れていて、それはAさんであり、Bさんです。
しかしそれでも尚、私は二重の見を読み進めていきます。するとどうも別れているように見えなくなってしまった自分を発見したのです。
その自分はすでに海水であり、繋ぎ目の無い自分です。
そこには不安は無く、もはや比較することも出来ない世界であり、存在を縛りつけ固定させる何かを感じることができなくなる。
それと同時に
すべてのものが自ら繋がりを感じ連関した状態は、再び自然発生的に各々を分節しはじめる。
相模湾の海水に溶け込む自分は、いまその瞬間を感じ、私を失った感覚を意識し再構築するという不可解な体験をしている。
そこには何も無いけれども何かを感じられる世界があった。何者にもなれない、何者にもなる必要のない空間です。
水は水を見る。透明な存在なのにそこに水を見る。
しかし水は自身が水だということを悟る。
すべての繋がりを感じつつ、また見る。
しかしその瞬間に見たものは繋がりの中での分節化された世界だ。
水から学んだことは、やはり人は人の中でしか生きられないということでした。
【しゅうちゃんの醒めた日常】