恐怖とは何か?
文明が繁栄してきた根源的な理由のひとつに『恐怖』があると思います。
なぜならば「現状のままではいけない」という恐れから、あらゆる行動が生まれてきたと思うのです。
ですから恐怖はわれわれ人類にとっての原動力と捉えることもできそうですね。
ある人にとっての恐怖は違う人にとっておなじ恐怖なのかと言われると必ずしもそうではないはずです。
例えば誰にでも訪れる『死』というものに対して、捉え方や考え方というものはそれぞれに存在すると思います。
生命の死に対して恐怖を感じる人もいれば、インドネシアのバリ島に住む人たちは死を歓迎します。もちろんバリ島の人の中にも恐怖と捉える人も居るでしょう。いずれにせよ全員が全員おなじとは限らないかもしれないということです。
では恐怖とは何なのか?
それではここから個人にとっての恐怖というものをつぶさに観察してみようと思うのですが、さて恐怖を感じる場面とはどんな時でしようか。
それはもしかすると過去に同じような体験をしたことかもしれせん。その事について誰かに気をつけた方が良いよとアドバイスされたことかもしれません。
わかりやすく言えば、『過去の記憶』から生じていると言えませんか?
あの時は確かこうなった。
こういう場合は結果的にこうなる。
もちろん今まさに体験する恐怖もあります。代表的なものは生命維持に関わる危険から、反射的に生じるものですね。
であるならば我々が大抵の場合に感じる恐怖とは危険を除いた、思考が過去の記憶をもとに創り出したものと言えるかもしれませんね。
つまり恐怖とは記憶から織り成されるものと言えるかもしれません。
先日わたしは東京タワーに行く機会がありました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、展望台には床が強化ガラスになっていて人が乗っても大丈夫な(当たり前ですが)所が何ヶ所かあります。
わたくし実は怖くて乗れないのです。
下が丸見えですから様々なイメージが次から次へと浮かんできます。全てが恐怖に繋がるもので、とてもではありませんが乗ることができません。
混乱していると後ろから小学生の女の子が平然と渡っていきます。何ならピョンピョン跳ねはじめるではありませんか。
それぞれ恐怖に感じるものが違うのだという体験でした。
そしてわたし自身の中では何が起こっていたかと言えば、過去における記憶からおぼろげな情報を元に転落するイメージ(ありえませんが)や、もしも強化ガラスが割れる確率があり、たまたまその瞬間に自分が乗ったという到底ありえない様なストーリーを勝手に創り上げたり…と。
まぁ忙しく思いを巡らせて慄いていました。
そう考えると、実は恐怖なんて存在しないのではないかと思えてきます。
つまり恐怖を作り出しているのは自分自身だということです。
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