コラム21: 恵まれた環境の「無自覚」がもたらすもの
数年前、私立校育ちのある17歳の若者が放った言葉が耳に残っている。「環境のせいにして努力しない連中は甘えている。そんな奴らに税金を使うなんて無駄だ」。その言葉の軽さと、背景に漂う無知さが、胸の奥を冷たくした。
彼女はきっと、悪気があったわけではないのだろう。むしろ、日々努力を重ね、自らの力でここまで来たという誇りがあったのかもしれない。だが、無知とは時に罪深いものだ。その発言には、自分の「恵まれた環境」への無自覚が透けて見える。高い学費を払ってもらえる家庭環境、質の高い教育を受けられる環境――それらが当たり前ではないことを、彼女は知らないのだろう。
「無自覚」はどこから生まれるのか
彼女が通った学校の教室には、経済的な困難を抱えた家庭の子どもたちの姿はなかっただろう。友人たちはみな似たような価値観を共有し、「普通」としてきた。自らの環境が特別であることに気づく機会を持たないまま、彼女は「社会」を語る立場に立ってしまった。だがその「社会」とは、彼女が見た狭い範囲に過ぎない。
私立校での教育は、確かに学力を伸ばす点では優れている。しかし、同時に欠けているものもある。それは、社会的多様性への理解だ。貧困の現実を、身近に感じることがない環境では、人は想像力を欠く。貧しい環境で育つ子どもたちの努力が、「甘え」ではなく、時に圧倒的な現実に阻まれていることを知る術がないのだ。
言葉の持つ力
「それは言っちゃいけないでしょ」という言葉がある。道徳的なニュアンスが含まれるこの表現は、聞き手の感情を慮るためのものである。しかし、その内側にあるものは、もっと複雑だ。無自覚な発言が他者に与える傷は、単なる倫理の問題ではない。それは、分断の種を蒔く行為でもある。彼女の言葉を聞いた人々は、彼女を憎むかもしれない。あるいは、「やっぱり裕福な人間はそういうことを言うのだ」と、自らの居場所をさらに遠く感じるかもしれない。
私たちが考えるべきこと
こうした現象に対し、私たちはどう向き合うべきだろうか。まず、恵まれた環境にいる人々に対して「気づき」を促す仕組みが必要だ。それは、単なる道徳教育や優しさの奨励ではなく、もっと現実的で多面的な視点を育むものであるべきだ。
一方で、発言者を一方的に批判するだけでは解決にならない。人は自ら経験したことのない状況を想像するのは難しい。無知が罪になるのは、その無知に固執し、学ぼうとしないときだ。だからこそ、社会全体が「知らないことを知る」機会を与える仕組みを作らねばならない。
最後に
あの日の彼女の言葉を思い出すたびに、胸がざわつく。そのざわつきは、彼女への怒りではなく、私たちが生きる社会への問いかけなのだ。特権に気づかない者がいる一方で、それを背負わされる者がいる。この不均衡は、個人の問題ではない。社会全体が共有すべき課題である。そのために、私たちはどれだけの想像力を持てるだろうか――その問いこそが、今日の私たちに課された宿題なのだ。