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「ヒト」「コト」「モノ」の違い

AIとは何なのか

- AIが現在ある程度の能力を持っていることは知られていますが、その先、AIの進化にどのような可能性があるのだろう。例えば、AIが発展し、データや知識を継承し、進化するという“遺伝”が生じる可能性があるという話もある。

- AIが解決できる問題とそうでない問題があることもわかっていますが、なぜそうなるのか。どのような機械学習によって、どのような問題が解決できるのか。

一方で、人間の脳が有する能力との違いは何にあるのか、また、AIと人間が互いに補完し合うことができる分野は何かについて、考える一助になれば幸いです。

哲学的な何か、あと科学とか

「AIとは何か❓」を考える前に、「人間とは何か❓」を何世紀にも渡っていく数多の学者に研究されてきた学問「哲学」について、とても興味深く紹介しているサイトがある。

その中から何点か本文をピックアップして紹介します。

原理的に不可能

「原理的に不可能です」という言葉があり、本サイトでもよく使っているが、この 「原理的に不可能」とは一体どういうことだろうか?
そもそも、本当に、「不可能」なのだろうか?
人類は進歩することによって、今まで「不可能」だったことを「可能」にしてきたじゃないか!

いやいや、そういうことではない。

「原理的に不可能」は、ただの「不可能」とはわけが違うのだ。

禅に、こんな物語がある。

夜中、いきなり師匠が飛び起きて、弟子達をたたき起こした。

師匠「こんな夢をみたんだ!誰かこの謎を解いてくれ!」

それはこんな夢だった。ツボに入っていたガチョウの卵が、そのまま孵化してしまった。このまま、放っておいたら、ヒナのガチョウは死んでしまう。しかし、そのヒナのガチョウは、ツボから出るには、大きすぎた。だから、ガチョウをツボから出すためには、ツボを割るしかないのだが、そのツボは非常に高価なもので、とても割るという決断はできなかった。

師匠「いったい、ワシはどうすればいいんじゃ!」

そういって、錯乱した師匠は、弟子達を殴り始めた。
そこで弟子達は、一生懸命、頭を使って、何か方法は無いか、考え始めたのだが、どう考えても、うまい方法は見つからなかった。しかし、師匠は「グズグズするな!」と決して弟子たちを許さず、「なんとかしろ!」と殴り続けたという……。

どんなに考えても、ガチョウを助けるためには、やっぱりツボを壊すしかない。

でも、ツボは壊したくない。

でも、ツボを壊さなければ、ガチョウは死んでしまう。

でも、ガチョウを助けてあげたい。

結局、どう頑張っても、同時に両方を救うことはできない。

「原理的に不可能です」というのは、この状況によく似ている。

たとえば、ゲーデルの不完全性定理によって、数学は「不完全である」と証明されたが、それを覆すことは原理的に不可能だ。

まず、そもそも、「数学は不完全である」というのは、「数学の証明によって出てきた結論」である。ゲーデルは、数学理論のなかに『パラドックス(正しいとしても間違っているとしても矛盾が生じてしまう命題)』が、『必ず存在してしまう』ということを数学的な手続きで証明したのだ。

したがって、数学者は、

「数学によって証明されたことは正しい(=数学は正しい)」

という前提を承知するならば、

「数学は不完全である」という結論を承知しなくてはならない。

もし、それでも、偏屈な数学者がいて、

「いいや、数学は、不完全なんかじゃありません!」「不完全性定理こそ間違っているんじゃないのか!」と不完全性定理を認めないとしたら、彼は、

「数学の証明によって出てきた結論が間違っている」

と述べることになってしまうわけで、そうすると、彼は、「数学は正しい」という前提が間違っているという結論を承知しなくてはならない。

――結局、どちらにしても、数学を救うことはできない。

つまりは、ある「正しい前提」にしたがって「不可能」という結論が出てるときに、無理やり「不可能」を可能にしてしまうと、「正しい前提」も一緒に壊れてしまう、という話だ。この意味で、数学を完全なものにすることは「原理的に不可能」である。

ようするに、「原理的に不可能」とは、理論に刺さった致命的なトゲである。やっかいなのは、そのトゲを壊してしまうと、理論の方も崩壊してしまうことだ。だって、そのトゲも理論の一部なのだから……。そのトゲは理論全体につながっているのだから……。

結局、そのトゲが、どんなに痛々しくても、ワレワレは何もできずに、見ていることしかできない……。

今、哲学や科学に元気がなく、「がんばって、いつか不可能を可能にします!」と少年のように目を輝かせていないのは、このような原理的な問題(トゲ)をどんどん見つけてしまい、気がついたらトゲだらけで動けなくなってしまったからだ。

「原理的に不可能」

ワレワレは、それをどうやっても可能にできない。

(補足)

ところで。禅の話には続きがある。

「ガチョウは外に出ています!!」

と言って、師匠を殴り返した弟子だけが許され、後継者として選ばれたそうだ。

ようするに、「ガチョウは外に出ています!!」

もしくは、

「そんなもん夢だろぉが!バカなこと言ってんじゃねぇよ!」

と、師匠をぶん殴って、前提そのものをぶち壊す勇気を持つものしか、原理的に不可能な物語を乗り越えられないという話だ。

「原理的に不可能」

それでも、どーしても、ひっくり返したいなら……、

――もはや「世界を革命する」しかない。そういうことだ。

哲学的ゾンビ

あなたは、こんな想像をしたことがあるだろうか?

「もしかしたら、「痛さ」や「悲しみ」を感じているのは自分独りだけであり、自分以外の人間は、ただロボットのように、何も感じずに、ただ状況に反応して自動的に動いているだけではないだろうか……?」

もしかしたら、僕の周りで、
「ありがとう、とっても嬉しい♪」
「……好きです」
「痛いよ!もうやめてよ!」
「おまえなんか死んじまえ」

とか言っている人々は、実は、なんの主観的な体験も持たずに、ただ機械的にそう言っているだけかもしれない……。

―という、そんな想像である。

このように、「外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、内面的には、意識を持たない……主観的体験を持っていない人間」のことを「哲学的ゾンビ」と呼ぶ。

このゾンビは、物質的には普通の人間とまったく同じであるのだから、もちろん脳も神経も持っている。だから、ゾンビに「赤いもの」をみせれば、彼の脳内の「赤」を認識する部位が反応を示し、
「今、わたしは赤いものをみています」
と話すだろう。

したがって、脳科学的には、まったく普通の人間と区別がつかない。

AIと人間を区別しているのはいったいナニ🤔❓

思考実験(1) 双子のクローン赤ちゃん

人間の脳は、ただの機械にすぎないのだろうか?
10分後、自分が何をするか、それはもう決定されていることなのだろうか?
人間は、自由意志を持っていないのだろうか?

この疑問を解くため、こんな思考実験がよく引き合いにだされる。
―――――
クローンの双子の赤ちゃんを作り出し、それぞれの赤ちゃんをまったく同じ環境の部屋にいれて、まったく同じ刺激を与えたとする。すると、どうなるだろうか?

もし、脳が、単なる機械にすぎないのだとしたら、物質構造として、まったく同じ脳を持つ2人の赤ちゃんは、寸分たがわず、まったく同じ行動をするに違いない。

しかし、同じ脳のはずなのに、もし違う行動をしたとすれば、2人の赤ちゃんには、それぞれ違う「意志、ココロ」があるということの証明になるはずだ。―――――
という思考実験である。

この実験を実際にやってみると、どうなるだろうか?答えは簡単である。

「人間は、完全に同じ環境を作り出すことはできない。だから、実験できません」

以上だ。

いや、ほんとに終了。これ以上 話す余地もなく、これでオシマイ。

そもそも、クローンだろうが、どんな技術だろうが、赤ちゃんの「脳」や「部屋の空気」を原子レベルでまったく同じ状態にすることは不可能だ。仮に、強引にやったとしても、カオス理論にしたがえば、「2人の赤ちゃんの間で、わずかでも環境(の初期状態)が違えば、まったく異なる結果になってしまう」わけだから、2人の赤ちゃんに行動の違いが見られたとしても、決して「自由意志」の存在を証明したことにはならない。

結局、このような思考実験についていえる事は、

「実験できないのだから、その実験がどうなるか……それについて、何も言うことはできません!」

ということだけである。

原理的に証明出来ない事ではあるが…🧐❓

思考実験(2)どこでもドア

ボクは、さっそく、どこでもドアをくぐり、学校へ移動しようとした。が、そのとき、ボクの体に、悪寒が走った。

何か、とりかえしのつかないことをしてしまうような――そんな悪寒。

のび太(🟠)「あ、あの・・・ドラえもん、ちょっと、聞くけどさ、<このどこでもドアって、どんな仕組みなの?」

ドラえもん(🔵)はこう説明した。

🔵今、自分の部屋にある「どこでもドア」を A とし、移動先の学校にある「どこでもドア」を X とする。まず、「どこでもドア A」 を通り抜けた人間は、その体を分子レベルでスキャンされ、その「分子構造」の情報が、移動先の「どこでもドア X」 へと転送される。そして、「どこでもドア X」 の方で、転送された情報をもとに、一瞬にして、その「分子構造」を再現する。

🔵「つまり、 ドア X では、キミ🟠の肉体が再現されるというわけなんだよ」

🟠「あれ?じゃあ、この ドア A を通り抜けたボクは、どうなるの?」

🔵「分子破壊光線で、コナゴナ。一瞬にして、消え去るよ」

🟠「えええ!?ちょ、ちょっと待ってよ、それって、ボクが死ぬってことじゃないの?」

🔵「違うよ、向こうの ドア X では、キミがちゃんと生きていて、学校で授業を受けるんだ」

🟠「いや、それは違うでしょ!だって、『このボク』のこの体が、消えるんだよ!」

🔵「でも、体も脳も記憶も同じキミ、―つまり、肉体的にも心理的にも同じキミ―、が向こうに現れるわけだから、キミは消えないよ」

🟠「いやでも、ドア Xから出てきたボクが、本当にボクだっていう保証なんかないでしょ!前回の思考実験によれば、『ボクの体と、完璧に同じ分子構造のもうひとつの体』なんか原理的に再現できないって言うじゃないか!だから、ドアXで再現されるのび太は、あくまで『のび太に似ているだけの他人』なんだ!」

🔵「いやいや、のび太くん、それはまったく違うよ。まず、『のび太である、つまり、キミであること』についていえば、キミの肉体をまったく完璧に再現する必要なんてないんだよ。それどころか、『完璧に再現する必要がある』と言ってしまえば、キミにとって好ましくない結論になるよ」

🟠「ど、どういうこと?」

🔵「もし、キミが『完璧に同じ分子構造の肉体でなければ、自分とは言えない』と主張するんだったら、

 『この一瞬だけが自分であり、次の瞬間は自分ではない、まったく違う他人である』

という主張も同時に受け容れなくてはならなくなるよ。

 だって、『次の瞬間のキミの体』は、『今のキミの体』とは、まったく異なった分子の配置になっているんだから。

 もっとも、もしキミが、「次の瞬間には自分が消えて他人になっている」という主張を受け容れるっていうなら、そもそも、『どこでもドアを使うと、自分が消える』というキミの心配が、瞬間瞬間、起こっているわけだから、『どこでもドアを使いたくない理由』なんか、どこにもなくなるけどね。

 ――で、本当に、そう思うの?」

🟠「次の瞬間のボクは、もう同じボクじゃない……?いやいやいや、それは違うと思うよ。次の瞬間のボクが、違う他人であるはずなんてないよ。ボクは、ずっとボクだよ。寝る前のボクも、起きた後のボクも、『同じボク』だよ」

🔵「うふふふふ~。やっぱり、そう思うよね~。そうすると、のび太くんは、寝る前の『十時間前のキミ』も『今のキミ』も『同じ自分』だと思っているわけだよね。でも、『十時間前のキミ』って、『今のキミの分子構造とは、微妙に違う肉体を持つキミ』なんだけど……、それでも『同じキミ』だって言うんだよね~?」

そしてこの後もドラえもんの無機質な解説は淡々と続き…この続きは本編リンク参照

https://noexit.jp/tn/doc/sikou2.html

思考実験(3) どこでもドア2

「扉をくぐる前」と「扉をくぐった後」……変わったのは、景色だけであり、のび太は相変わらず『のび太』だった。心配してドキドキしながらドアをくぐりぬけたことも、ドラえもんと会話したことも、はっきりと覚えている。

🟠「な~んだ。ボクはやっぱり『このボク』じゃないか。心配して損したよ~」

のび太は、元気に教室へ向かって歩き出した。

―――――――――――――――

その同時刻……。

のび太は、暗闇の中で気がついた。

🟠「あれ?ここは何処だろう?

 ――あ、そうか。ボクは 『どこでもドア』 の中にいるのか」

四角い狭い空間だった。あたりは壁で何もない。

することもない、のび太は、しかたなく、向こうの『のび太』に思いをはせる。

🟠「………きっと、ボクの肉体の情報が、スキャンされて学校にある『どこでもドア』の方では、ボクと同じ肉体の『のび太』が再現されているんだろうなぁー。

 でも、あれ?なんでボクはまだ意識を持っているんだろう?

 それに……もしも、こうしている間に、向こうの『のび太』がすでに再現されていたとしたら――」

この後、驚愕の事実に直面したのび太の身に災難が降りかかる❗…この続きも本編リンク参照

https://noexit.jp/tn/doc/sikou3.html

諸行無常

さて、のび太(🟠)とドラえもん(🔵)、どっちの言い分が正しいのだろうか🤔❓

ただ一つ言えることは、『この世に生を受けているものすべて、一瞬たりとも同じ常態ではない』ということである。何もしていないようでも呼吸をする度に細胞は生まれ変わり、生命は常に流転していく。
一方でAIは電源とハードさえ生きていれば全く同じ常態(情報)を維持できる。

色即是空 空即是色

こう書くと、AIは完璧な存在の様な気もするが、目に見えるものもやがて朽ち果て消滅する。無機質な石さえも。そして、AIも適切な答え(アノテーション)を与えてくれる人間が居なくなるとやがて暴走し、いつしかAI自身と人類を危険因子と判定し破壊の判定を下すだろう。

「ヒト」「コト」「モノ」に区別無し

私は人間「ヒト」も、AI(情報)「コト」も、実体ある「モノ」も究極的には区別は無いと考えている。だから、要素となるソフトウェアやハードウェアや業務標準(ドキュメント)を新たに“産み出す”時には、我が子のように立上がった後の成長を見据えて入念に企画し、設計し、検証し、改善してきた。おこがましくも、そうする事で「神よ細部に宿れ」と願いを込めて。そこに、権力者の思惑などを入れてはならない。

AIとの共生を託せるZ世代は希望の光

AIは純真無垢な子供と一緒。教える大人が悪いと悪い子になる。「バイアスと公平性の確保」これが一番大きな課題だ。

AIがもたらす社会の変化について|B.E.A.S.T

DXは権力者にとって媚薬🍷
ヒト|コト|モノに垣根を設けない #Z世代 ならば、きっと真実に気づき、考え、正しく行動してくれる筈。子供(AI)は親(Z世代)の背中を見て育つべき。そこに権力者による利権忖度アノテーション(偏重バイアス)を入れさせてはならない。

子供(AI)は親(人間)の背中を見て育つのだから。