見出し画像

しっかり

シェルター(タープ)をつくるために、枝を探す。
なるべくまっすぐで、湿っていなくて、ある程度の長さがあるもの。何でもいいわけではない。
「役に立つ」とは、条件が必要だ。

シェルターをたてるためには、柱となる枝が必要

同じように、人も、誰かの、あるいは世の中のお役に立ちたいなら、「しっかり」しているほうがいい。

ぼくにとっての「しっかり」とは、嘘偽りがないこと
まっすぐであること。
固すぎないこと。
やわらかさやあたたかみがあること。

そして、これは理想なんだけど、流れ続ける川や湧き出る水のように、力強く、遠くまで届かせてくれるような希望を感じること

それが、ぼくにとっての「しっかり」。
そんな存在でありたいと思う。


今日、たまたま尊敬する大好きな先輩、KAIさん(甲斐崎博史さん)とのご縁で、大日向小中学校が主催するリヒテルズ直子さんの講演会を聴かせていただく機会があった。


講演の最後、彼女はイエナプランの創始者であるドイツの教育学者ペーター・ペーターセン(Peter Petersen, 1884〜1952)の言葉を紹介された。

このスライドには「大日向の大人たちのミッションとは?」とあったが、これはわたしたちみなに当てはまる。

「将来、どんな政治的、経済的な状況が生じるか、私たちは誰も知らない。今生きている誰にも知ることはできないし、私たちについて何かを知っている人が他にどこかにいるわけでもない。未来は、人々の不満、利益追求、闘争、そして、私たちに任せた心がけしか根拠とすることができない新たな経済的、政治的、社会的状況によって決まるだろう。けれども、たった一つ、確信をもって言えることがある。これら全ての厳しく険しい問題は、自分から進んで問題に取り組んでいこうとする人々がいて、彼らにその問題を乗り越えるだけの能力と覚悟があれば、解決されるだろう。
この人たちは、親切で、友好的で、互いに尊重する心を持ち、 人を助ける心構えができており、自分に与えられた課題を一所懸命やろうとする意思を持ち、人の犠牲になる覚悟があり、真摯で、嘘がなく、自己中心的でない人々 でなければならない。そして、その人々の中に、不平を述べることなく、他の人よりもより一層働く覚悟のあるものがいなくてはならないだろう。

2024/11/13リヒテルズ直子さん講演のスライドより

とても共感する。

「自己中心的ではない人々」とある。「自己中心的」とは一体何なのか。きっとさまざまな捉え方があるだろう。

ぼくが思うのは、人は本来、正しさや美しさが分かる生き物である一方で、放っておくとろくなことにならない生き物でもある、ということだ。

快適な方、安全な方に、流れる。思い通りに最適化されていく。面倒なことは、誰かにやってもらう。

それが現代生活だろう。

暑ければエアコンを入れ、外では、携帯扇風機を作動させる。寒ければ暖房スイッチを入れ、外では、高機能で温かい上着を着る。

興味関心に合わせて流れてくる動画を見続け、フォローしている情報を重点的に取り込む。

グーグルマップで早い経路を探す。口コミ評価がよく、コスパのいいレストランを選ぶ。

目の前の空の動きや空気の湿り気、風を感じることはなく、親指で操作したスマホの天気予報を見て行動計画を立てる。

失敗しないように。ストレスがないように。

それでいいと思う。

だけど、

そうやって生きれば生きるほど、ストレスにめっきり弱くなり、怒りやすくなり、自分の正義を振り翳したくなり、想像力がなくなり、人としての力が弱くなっていく。

なんて思う。

しっかり生きているかな?

外でゆっくり自然の中で過ごすと、どうでもいいことに、結構心がとらわれている自分に気づきます。

自然は、思い通りにならないこと、予測できないこと、繰り返しているようで、繰り返していないこと

なんかを教えてくれます。


乗鞍高原、まいめの池

頭を冷やす という言葉あるけれど、
建物の中で、いつまでも目くじらを立てて生きている大人のみなさんに言いたい。

外に出よ!自然を見よ!と

不快を取り除くのではなく、
不快と遊べるようになれるといいな。

快適な現代生活で過ごせば過ごすほど、
だれかの、何かの、自分以外の人、もの、ことに頼れば頼るほど、
そういうことは難しくなるんじゃないか。

他人に期待しない。
自分の計画にこだわらない。
予測不能な不快と遊べる

そんな自分でありたい。そう決意して

しっかり 生きていこう