「シザーハンズ」に思うこと
先日のこと。
とある情報番組で「今日10月10日は”手の日”です」と言っていた。
(スイマセン、正確には”手と手の日”でした。)
50を過ぎた私には10月10日と言えば
長らく「体育の日」だったのだが…。
いつから、そんな日になっていたのだろう
しかも
「なぜ手なのだろう」と、不思議に思った。
だが
両手を広げて前に出してみれば・・・確かに「10」だ。
そういうことなのか、と自分なりに納得しておいた。「手」といえばいつも思い出すことがある。もう30年以上も前に観た、ティム・バートン監督の
「シザーハンズ」というタイトルのファンタジー映画である。
「シザーハンズ」ということ・・・
―発明家によって造られた人造人間のエドワード(ジョニー・デップ)は
唯一未完成のままの”両手”を博士からプレゼントされる直前に博士に先立たれてしまう。以来ひとりで暮らしていたが、そこに化粧品のセールスに訪れたペグという女性に見出され、彼女の家に招き入れられる。
初めはエドワードに対しその異様な姿に警戒していたペグの家族や町の人々であったが、次第に彼の優しさや、彼のその”手”から生み出される芸術的才能に、周囲の人々は徐々に彼に対し興味を抱き心を開いていった。
特にペグの娘キム(ウィノナ・ライダー)との関係はエドワードにとって特別なものになっていった。が、ある事件により、エドワードは次第に世間から追い詰められ社会から拒絶されていくようになる。ついに彼は愛するキムからも離れる決意をし、再び孤立した生活に戻ることを選ぶ―
その映画で特に私が印象的だった場面が以下である。
『本物の人間そっくりに造られた人造人間のエドワードは、ある年のクリスマスに唯一未完成だった”手”を博士からプレゼントされる。しかし、その”手”を付けることなく博士は倒れてしまう。
目の前にはバラバラになった”手”と倒れたままの博士の姿。そっと自分の手で博士の顔をさすると、そこにひと筋の傷が残される。博士の血がついた”自分の手”を見つめるエドワード…』
この場面は、エドワードが愛するキムを抱きしめてあげたくてもそれが出来ない、そんな時に思い起こした回想シーンだった。
なぜできなかったのか…。
それは
自分が触れることで、その対象を傷つけてしまうと知っていたから。
自分にそのつもりはなくても、この手は全てのものを傷つける。
なぜなら、その手はハサミで出来ているから。
数分間のそのシーンに、私は大泣きしてしまった。そして思った。
人の"手”の持つ意義を。そしてそれを道具に私は仕事をこなしていくのだという事も。
当時、私は看護学生だった。一年でも早く家から出てひとりで生きていくために働きながら通っていたのだ。(昭和はそれが可能だった)
手を使うことがこんなにも意味のあることとは知らなかった
いろいろなケアをするのに
「さする」「抱える」「温める」「押さえる」「差し込む」
「たずさえる」「支える」など自在に手は多くの役割を担っていくのである。
それはきっと医療者だけではないだろう。介護に関わる人も、育児や保育に関わる人も同様であると思う。
ハサミが創造性と破壊性を持ち合わせるように人の手も同じなのである。
「叩く」「殴る」「つねる」「抑えつける」・・・
どう使うかは使う側の良心にかかっている。
あの映画の最後は、雪が降らないキムの住む街に、エドワードが去ってからクリスマスの時期になると必ず雪がどこからともなく降り注ぐようになっていた。
それはエドワードが遠く離れた棲み処から氷の彫刻を削って雪を作り出していたためだった。
なぜなら、かつて彼が氷の彫刻を削っていた時
風に舞った氷片を見た彼女が「綺麗」と喜んでくれたことでもあったから。
彼の手はハサミのままだったけれど、最後までその手で紡いだものは
愛する人への贈り物だった。
私は看護という仕事を挫折した者だ。
だから今でも療育に関わる方々を思うと、本当に頭が下がる思いである。「患者という字は心を串刺しにされた人と書く。それほど痛みに耐えている人なのです」と当時教えられた。
確かにそうだ。
患者経験もある私には分かる。
あまりの痛みに日々脂汗が多量に分泌され体重が1週間で12キロ減った。絶食だったせいだと思うが、それ以上にあの多量の汗のせいだと確信している。それくらい痛かった。
でも、それでも、長く本当に忍耐強く関わっているのは従事する側の方ではないか、と現実を知る側としては擁護したくなる。
人を助ける…など
大それたことは私には
なかなか勇気と能力がいることだ。だから、
せめて「何かを伝える」くらいは出来るようになりたい。
そのために自分の手を使っていこうと思う。
それが、誰かの心の琴線をふるわせられたなら
こんな幸せなことはない、と
そう思う今日この頃なのである。