いま、そこにだけ降る雨
梅雨だと言うのに、全く雨が降らない。
…
と思いきや、いきなりザバーと降り出した。
雨は嫌われものだが私は好きだ。
雨音は耳に優しい。
夜、
雨音を聴きながら眠りにつくのが何とも心地よいと感じるのである。
何より
空から降り注ぐ水の糸は、見ていると
何か懐かしさのようなものを
私に感じさせているように思えて仕方がないのである。
昔
『雨には忘れられた何ものかが含まれている』
という話を読んだことがある。
―たとえば、子供の時に雨に打たれてはしゃぐことはあっても
老人になると、
雨に高揚感を覚えなくなり、むしろ憂愁を感じるようになる。
それは
雨の中には《忘れられた何ものか》が含まれているからであり、齢を重ねるごとに重く感じられ人に憂いをもたらすのだー
(「クラウドコレクター」より)
私が雨を見て何か懐かしさを感じるのは、こいうのもあり得るかも・・・と思ったものだ。
ちょうど昨年の今頃、
やはり災害級の気温上昇に加え、梅雨というのに一滴の雨粒もないという
日照りの時期が都心にはあった。
なのに、群馬では「雹が降った」という。
その映像を、よく覚えている。
なぜなら、その映像は一瞬で私を過去の記憶へと引き込んだのだから。
「デイアフター・トゥモロー」
2004年公開の、このハリウッド映画は
地球温暖化により世界各地に異常気象が発生し、ニューヨークの街は氷河期の危機に瀕するという話だ。
その話の冒頭あたり、共に異常気象に見舞われる都市のひとつに
東京があった。
東京では突然ゴルフボール大の雹が降り注ぎ、人々がパニックになるという設定だ。以来、
この「突然雹が降り出す」という言葉を聞くと、いつもこの場面を思い出されてしまうのだ。
都市と環境問題は繋がっている。
古くから都市は多くのエネルギーを搾取してきた。
建造物の原料は石灰質をもつ生物の遺骸が、長く時間をかけて集積してできた石灰であり、鉄は鉄鉱石という地層から得られる石を練られることで作られる。
さらに石炭、木材、水源、石油、天然ガスに至るまで、近代以降の都市には必要不可欠であるだけでなく、それらを短期間で膨大な量を消費するという点にある。
1960年代にはいり、人類は宇宙に行った。
そこにぽっかりと浮かぶ碧い星、「地球」を初めて肉眼で視たのだ。
そのわずか前、AIの基になるコンピューターの開発が進み、
新たな核兵器が次々に生み出されていた。
さらに「生命の神秘」といわれた遺伝子の解明、
《DNA二重らせん構造》が発見されたのも同じ時期である。
奇遇にも、このコンピューター入力のプログラムパターンと
DNA分子配合によるプログラムパターンはとても似ているのだそうだ。
まさに、生と死の境界を同時期に発見したタイミングで
人類は
現時点で私たちが存在し得る唯一の星「地球」を観たのだ。
あれから64年
我々の進歩とは真の成長を遂げていたのだろうか。それとも実は衰退に向かっていたのか、私にはよく分からない。
でも…と思う。
46億年もの間、ここで様々な種の生命が生まれ根付いてきた。
その中で知恵を得た人類は
幾つもの争いと殺戮と破壊を繰り返してきたのだ。
そのたびに真に傷ついてきたのはこの地球だったのではないか、と。
いつまでも一人前になり切れない人類の愚行を、
それでも黙って許してくれていたような、
そんな気にさせてくれると思えるのである。
人類が一人前になるには、まだ時間が必要なのかもしれない。
もしかしたら永遠にその境地に達し得ないから人類なのかもしれない。
たとえ、その時
人類がAIに取って代わられる世界になっていたとしても、
まだここには何億もの種族が幾千万の世代交代を繋ぎ生命を芽吹かせていくことだろう。
『大気とは決して厚いものでも無限に拡がっているものでもない。
とても薄く玉ねぎの皮のように地球を包み込んでいるものなのだ。
もしも
この層がなくなってしまったら、人類も植物も動物も何も存在しないのだから、これを壊すことのないよう注意していかなければならなかったのだ。
これは地球の未来を左右する大切な問題である。汚していい場所などどこにもない。
まして核戦争などで汚染されることのないように。(アラン・ビーン)』
いつかまた思い返す日があるだろうか。各々ひとりひとりの中に在る先人の言葉たちを。
自然の万象に比べれば私たちという存在はとても小さい。
そして今、こんなにも豊かな星で生きている。