わたしと恋
私は中学生の頃から今まで、何人かの人と付き合ってきた。自分から好きになった人もいれば、好きになってもらってから好きになった人もいた。
はじめはただ話すだけで楽しくて、会うと嬉しくて、そのうちだんだんもっと話したくなって会いたくなって、その人もそう思っていてくれたらと願うようになって。
好きだと思っていた人が同じ気持ちだったと知る喜びって堪らない。もう天にも舞い上がりそうで、なんてことない友だちのジョークにもずっと笑っていられるような、今まで気にも留めていなかった片隅の花を思わず写真に撮っちゃうような、ぽかぽかとした高揚感でいっぱいになる。
その人の隣を歩く時を思って服を選んだり、その人の些細な仕草を何度も思い浮かべてはにやにやしたり、いつかこんなこともしたいしあんな所にも行ってみたいなんて止まらない妄想に時間を費やしたり。恋の始まりはいつも、私に非日常を与えてくれる。
だけど願いが叶って付き合ってみたら、いつか来るかもしれない別れがたまらなく恐ろしい。
友だちならよっぽどな裏切りや大喧嘩でもない限り、別れはないだろう。恋人も友だちのように終わりがなければと思ったことが何度もあった。
友だちでいて充分楽しいのなら、べつに付き合う必要なんてないんじゃないか。わざわざ関係性に名前をつけて縛り付けるなんて不自然じゃないか。付き合うことに何の意味があるのか、私はしばらく自問自答していた。
だけど今は少しだけ答えが出ている。
付き合うなんて無意味だってこと。所詮は一方的な独占欲に過ぎないし、誰かにとって特別な存在であるという優越感やある種の強迫観念なのかもしれない。
だけど、それでも私は恋人という存在を認めたい。
私の中に生まれた、この人を独り占めしたい、何もかもこの人の一番になりたい、この人と過ごす時間に特別な理由や意味があって欲しい、そんな卑しい感情の全てを受け入れて、幻の "永遠" や "絶対" を信じてみたいから。運命の人や永遠の恋を馬鹿だ幻想だと笑うよりも、本当かもしれないと信じてみたい。何度消えようと失おうと、馬鹿みたいに何度も。
恋は試練だと思う。今までの価値観を変え、ひとりでは味わうことのないほど大きな心の揺れに何度も乱され、嫌だと思う相手の部分に自分を見ては絶望し、もう無理だと思った先に希望を見つける。ひとりでいるより大きな孤独を支えてくれるのは、はじめにつけた恋人という名の称号かもしれない。相手にもらった愛情いっぱいの言葉かもしれない。
誰にも強要されていないのにわざわざ始まりの日を作って、誰にも頼まれていないのにもっと素敵な自分になろうと努力して、精一杯の言葉で相手と対峙してひとつひとつの行動に精一杯の思いを込めて。そうして何度も向き合った先で小さな亀裂を見つけ、誰にも望まれていないのに別れを決める。本当に馬鹿馬鹿しいとつくづく思う。だけど、馬鹿馬鹿しいことを真剣に深刻に大切にできることってとても大切だと思う。大人になるにつれて、生きていく上での要領というかぼんやりと用意された道標みたいなものをみつけて、なるべく転ばずに生きることが出来るようになる。それによって無闇に傷つけたり傷ついたり、そういう馬鹿な失敗は少なくなっていく。
だけどそれってたまらなく平凡で退屈だ。
私はそんな要領や道標に従って生きられるほど偉くないし、大人にもなりきれない。ならなくていいとすら思っている。
だからいくつになっても、何度傷ついても、誰かと本気で向き合うことを諦めたくない。誰かを好きだと思ったあの日の高揚感や、何を見ても嬉しくなるほど舞い上がる自分を忘れたくない。
別れがくるたび、何でこんなに悲しいのだろうと思う。何度経験したって一度特別になった人が去っていく姿を見るのは、一度特別だと言ってくれた人の元を去るのは心が引き裂かれるほど辛い。泣いて縋りたくなるくらい寂しい。一度も私の料理を食べたことのない人に私の料理が下手だとかまずいとか言われても何のダメージもないけれど、何度も何度も私の料理を食べて笑ってくれていた人にやっぱり苦手かも、もういいやと言われるのは耐えられないもの。
それでも私はまた、誰かに料理を振る舞ってしまう。何度も何度も、目の前の人を思って心を込めて作ってしまう。そんな自分が好きなのかもしれないし、それしか取り柄がないのかもしれないけれど。
別れの寂しさも、"ずっと" を誓い合う虚しさも、自分の愚かさも、恋を通して嫌というほど味わった。それでもまた、私は恋をする。
馬鹿みたいに真面目に、誰かを好きでいたい。