昔読んだ本の話
Prologue
小学校のころから読書が好きだった。喘息持ちで、休み時間に走り回れなかったというせいもある。
図書館の小説棚はだいぶ読んだ。江戸川乱歩の明智小五郎シリーズ……というより怪人20面相・少年探偵団シリーズとか、赤川次郎とか。
その頃に記憶したものはずっと残っているのか、よほどショックを受けていたのか、どちらかはよく分からないけれども、ちょくちょく思い出すものがあったりもする。
例えば、明智小五郎のなかでは、エレベーターの中での殺人事件がある。もちろん、密室。エレベーターが降りてくる間に、車いすに乗った被害者は首後ろにナイフを突き立てられて亡くなったというもの。
ネタバレではあるが(というか、このnoteを読む世代・層は、だからといって今から江戸川乱歩の小説集を読み漁るのを楽しみにしている人たちではないだろうと推測しているのだけど)、結果はナイフに紐をつけてエレベーター上部中央に空いた換気口を通し、紐を上階に固定、エレベーターの加工に併せてナイフが柄から外れて被害者の首に落下して突き刺さるというトリック。
これは怖いな、とも思ったし、それからしばらくはエレベーターに乗るたびに天井を見上げて換気口がないか確認したりしてた。
さて、そんな感じで、印象に残っているけれども誰の作品なのか、どんなタイトルだったのか全く思い出せないものがある。もしこれを読まれた方で「それは誰それの何という話ですよ」とご存じの方がいたら教えていただきたい。
つらつらと書いていくが、なんせ40年近いほど以前の記憶なので、だいぶあやふやにもなっているのはご容赦。また、他にも思いついたら書き足していくかもしれない。
宇宙人と人類の進化
たしか、海外作品だったと思う。
ある死体が発見される。全身の皮膚はゴムのようになっており、青だか緑だかに変色しているという奇妙な死体。
それを調べていく主人公は、刑事だったか医者だったか、超能力を操る集団が関わっていることを突き止める。
人間は本来万能だが、その力を封じ込めているのは常識だ。常識を心の底から否定した時、能力が解放され超能力を得ることができる。
たとえば、「壁を通り抜けることは不可能」。それを、一朝一夕に「通り抜けられる」と言い聞かせるレベルではダメ。「通り抜けられるのは、当たり前じゃない?」ぐらいに思い込めて初めて、壁抜けができる。
主人公も半信半疑でやってみたら、触らずにモノを動かしたり宙に浮いたりできるようになった。
さらに、その能力を使って人体自体を改良していこうという実験を行っていて、変死体はその失敗作ということになった。
最終的に突き止めた集団のボスは、宇宙人。宇宙人は主人公に問いかける。
「生命体に進化はつきもの。人類は今のままでは今後の環境変化に耐えられない。人類が人類であるために、飛躍的な進化を急激に行う必要がある。そのために私は来た」
これに対して主人公の出した答えは「なるほど」。
え? って、思わない? 思うよね(笑)
そう、最後の最後で主人公はその宇宙人集団側についてしまう。「ともに歩もう、人類の未来のために」みたいな感じで。
これは、衝撃だった。今の言葉でいう、「闇落ち」。
その衝撃を十年ぐらい封印(忘却)して、不意に思い出したのが「Xファイル」第1話。人体を伸ばすことができる生命体の話で、やたら長い指紋が現場についているというもの。ゴムのように伸びる身体……と聞いて連想したのが、この小説だった(今なら「ONE PIECE」だろうけど)。
ついでにいうと、そのあとに映画「アバター」を見て「進化のために変色した人体……」とまた思い出した。
署名運動の罠
これは、赤川次郎だった気がするのだけど、思い出してからいくつかの短編集を読み返してもどれもヒットしなかった。
主人公は普通のサラリーマン。
あるとき、駅前で署名運動をしている少女を見かける。普通にボランティアか何かの活動で、たまたま気が向いた主人公は署名をする。
その日から、主人公の身の回りに不穏な影が漂う。誰かが尾行している気がする、近所でひそひそ話がされる、会社に身元調査員が現れる……
そして、逆襲を狙った主人公の前に現れたのは、公安。主人公にかけられた容疑は「テロリスト予備軍」。
「署名活動にホイホイとサインをする。そういう浅はかな考えで活動に賛同する奴らは、やがて主体性のない集団となり、一部の目的を持った犯罪者に付き従うようになる。それがテロリズムだ。だから、定期的にオトリの署名活動を行って、テロリスト予備軍を洗い出している」
そして、主人公は「知りすぎた人間」として毒を打たれ、駅前に放り出される。
駅前広場で倒れこんだ主人公を心配して、少女が駆け寄る。「大丈夫ですか?」という善意の塊のような少女に対して主人公は「気をつけろ、私たちは監視されている、自由などない」と言い残して絶命する。
これもまた救いのない話。今でこそ、駅前での署名運動など見かけなくなったが、30~40年前はちょいちょいいたと思う。
で、「まぁ悪いことではなさそうだし、自分が名前を書くだけで何かの役に立つと感謝されるのなら、いっか」という程度で何らしかの活動に賛同する≒協働するのは、確かに危険な行為だろう。自分が賛意を示すものに対しては、それが何なのかをしっかりと確信する必要があるべきだ。
で、これってSNS時代にこそ改めて考えるべき話のように思うんだよね。
数年前の「特別公務員法に反対します」運動なんかは、まさにそれ。別に悪い活動だったというわけでは毛頭ないけれども、「その運動」が何を起点としてどういう結末を求め、では対案として何があるべきだったのか、みたいなことまで考えてハッシュタグ付けてムーブメントに乗っている人は、どれぐらいいたんだろうね、と。
一旦この2篇について記載。思い当たる方は情報プリーズです。