見出し画像

通勤電車借景

 今日も今日とて電車は行くよ。仕事に向かう僕らを乗せて……
 毎日同じ時間の電車で同じような顔ぶれで乗る電車。
 時間帯が違っても同じ駅、同じ乗り場、同じ車両、同じドア、同じ乗換え……変わりばえしない反復動作。
 それでも、たまには面白い光景に出くわすよね。

迷惑です!

 朝の電車。
「ちょっとやめてください!」
 一つ隣のドアのあたりで女性が大声を上げた。
 車内に緊張が走る。おっと。痴漢か? そうはいっても、そんなに混んでいるわけではない。酔っ払いでもいるのか?
 静まり返った車内に続いた女性の言葉。
「誰かオナラしたでしょう! 迷惑です!!」
 いやいやいや……迷惑ではあろうけれども……

 出物ハレモノところ嫌わず、って、死んだ祖母ちゃんがよく言っていたな。この類の迷惑はいたしかたない。
 路線がいいのか、時節なのか、痴漢騒ぎというものにはもう何年も出くわしていない。社会人になりたての2000年ごろは、年に1、2回は「この人痴漢です!」を聞いていたように思うが……まだ超満員電車に駅員が人を押し込んでいた時代だ。それに比べれば、どの路線もマシになった気もするが、そうでもないのだろうか。路線も時間帯も違うからなぁ。

 夕方の電車で、なんか言い争っている男女がいるな、と思った。怒鳴りあうのではなく、男が小声で言い募るのを、女が短く返している感じ。
 その二人が降りたのは、奇しくも僕が降りる駅でもあった。ホームで男が腕をつかんだのを振り払った女は、ついに「いい加減にして!」と怒鳴り声をあげた。
 振り払われた勢いでバランスを崩した男が、柱に身体をぶつけると、足がもつれたのかそのまま崩れ落ちるように膝立ちになった。
「自分が何をしてきたか分かって言っているの?」女はそれを見下ろすように言い放った。「自分の胸に手を当てて考えてみたら?」

 歯切れのいい罵声に毒気を抜かれたような男は、女を見上げた膝立ちのまま、胸に手を当てた。なぜか、両手で。
 まるで教会でマリア像に懺悔をしているかのようでもあったが、いまここにいるマリアは慈愛どころか嫌悪の表情で仁王立ちして見下ろしている。

 その横を抜けて改札に急ぐ集団の中にいた僕は、そのあとの話がどう展開されたのか、知らない。人生で「立ち止まるべきだった瞬間ベストテン」に残り続けるだろう。

 毎年4月になると、新社会人が電車内で一花咲かせてくれる。これも迷惑と言えば迷惑だ。
 6時台の電車に日常的に乗っている人は、社会人だろうと学生だろうと、睡眠前後の静かなモードを求めているが、社会人なりたてで研修にでも向かう若者たちは、遠足(非日常)に向かう子どもたちのようによく喋る。

女子A「あ、課題やった?」
女子B「配属希望の? やった。どこにした?」
女子A「営業。一番無難かなって思って」
女子C「分かる、同じ。あ、そういえば昨日You Tubeで~のMV出てたよ」
女子A「えっ、見てない」
女子D「あれね! チョー良かった! おかげで寝不足。研修で寝る。それだけの価値ある」

 女子2~4人程度だと、だいたいこういう会話。過去に面白かったのは、2人連れでひとしきり盛り上がってから一人の子が言ったこと。

女子1「ね、変なこと言っていい?」
女子2「アナ雪かよ」ともう一人がツッコミを入れてから『そういうの、大好きだ』と映画の中のセリフで応じた。
女子1「私たち、反対方向の電車に乗ってるの」
女子1・2「……えーっ!」
女子1「降りまーす!」

 騒々しいな、と思っていたけれど、ちょっとしたアメリカンコメディのような会話をして降りて行ったのは、面白かった。むしろ元気をもらえた気がする。

 社員寮をあてがわれて最初の数週間は共同生活を送るような会社だと、こういうことになる。一方、地方から出て来て一人暮らしを始めたりすると、静かに過ごすのだろう。というか、一駅着くたびに車内電光掲示板とスマホを見比べたり、勝手に動くわけのないスーツケースをしっかり握りしめたりして、微笑ましいのだが、ウブ感丸出し。当分は夜の繁華街を歩くなよ、と余計なことを思いながら電車を降りて、ふと思った。

 路線図とか時刻表とか、減った……?

 地上線なんかは、だいたい駅名表示と路線図と時刻表が順番に天井から吊り下がっていたと思うんだけれども。
 まぁ、今は電車経路の検索も全てスマホでやる時代だからね。どこにいくのに、どういうルートが早そうとか、次の電車まで何分とか、表示されたまま行くだけだから。快速電車で通勤している人の中には、通過駅の名前が分からないという人までいる。地理の全体像が分からないから、ちょっと早く・遅く着いたりすると行先の違う電車に乗っていいのかどうかも分からない。
 電車の行先表示も液晶電光板になったので、いろんなバリエーションがある。日本語、英語……だけでなく、中国語、韓国語に対応する電車もあり、それぞれの表示を繰り返していく。だが、中国語はまだしも、それ以外の文字は「どこ行き」か、パッと見て分からない。
 ここまでくると田舎者の新入社員じゃなくても混乱するな。もっとも、四十過ぎてキョドっていたら、ただのイケてないオッサンでしかない。

電車の外にもドラマあり

 金曜日の夜。飲みに行く人間は多いが、通常通りの残業に明け暮れる人間もいる。僕だ。
 それでもたまには、と21:00に会社を出て途中下車して行きたかったラーメン屋に行き、ビール2杯も飲めばゴキゲンになる安い人生。
 ほろよいで地下鉄に下りて行くと、ちょうど電車が来た様子。走って乗ったところで夕飯は済ませてるし……と、のんびり歩いていたら、降車客がぞろぞろと歩いてくるのが見えた。
 狭く、薄暗い、地下道。酔っているのか何人かは足取りが怪しく、疲れている何人かの足は重い。一言も発することなく歩いてくる集団は、意思さえあるのかどうか。まるでゾンビだ。
 持っていたビニール傘を握る手に力が入る。集団ゾンビに立ち向かうヒーロー。昔見たアニメかゲームかのイメージを持ちながら……僕は壁にへばりつきながら、目を伏せて集団をやり過ごした。
 現実はそんなもの。

 ゾンビ妄想系だともう一つ。
 朝、駅に着いたらちょうど電車が入ってくるところだった。だが、その日は数分早く家を出たので、いつも乗る電車の1本前、これに乗ると会社の玄関が開いていないことがある。
 やり過ごそうとダラダラ歩いている僕の後ろに、バタバタとした足音が迫ってきた。

男「早くっ、電車来てる」
女「うん、えっ、あっ、うそっ、PASMO忘れた」
男「えぇっ!」
女「私のことは気にしないで先行ってっ! 大丈夫、次でも間に合うから」
男「うん、じゃぁ先行くぞ」

 大声で言いあいながら走ってきた男が、僕の横をすり抜けて自動改札を突破し、電車に駆け込もうとした目の前で、ホームゲートが閉まった。

駅員「えー、駆け込み乗車、ご注意くださーい」

 無感情な駅員の声が響く中、電車はスルスルと走り出していった。肩で息をしながら見送る男。呆然と振り返ると、同じく脱力した顔で自動改札を通り抜けてくる女。
 そもそもさ、次の電車でも間に合うなら、走んなよ……とか思いながら、同じ電車に乗った。
 ゾンビ集団に追われているかのような迫真の会話をしていたとは思えないほど、その2人は一言も発することなく電車に揺られていた。

 日常の中に妄想の風景を重ねるだけではなく、単純に奇跡の瞬間に出くわすこともある。
 雨の夜、駅トイレ。その駅は、男性用便器の上部に物を置ける部分が少し広かった。用を足そうとした僕の隣に、男子高校生が立った。折り畳み傘を便器の上に置き、少し間が開いてからジョボジョボと、年齢の割には豪快な音を立てて用を足している。
 と、折り畳み傘が転がり、そのまま便器の中に落ちた。しかも、チューリップの花のような形で、ピッタリと。これがいわゆるシンデレラ・フィットか。
「あぁぁあぁ……」
 男子高校生の喉から、声のような悲鳴のような音が漏れる。少し変調したジョボジョボは、徐々にデクレッシェンドして、止まった。
 男子高校生はモノをしまうと、緩慢な動作で傘を拾い上げて、中に溜まっていたものを流した。手洗い場に目をやった。洗おうと思うのだろう。だが、その傘が何か、用を足していた人も、順番待ちをしていた数人も、みんな知っている……
 がんばれ、まだ長い人生に試練はつきものだ、と心の中で声をかけて、僕は平静な顔を保ちながらトイレを出た。

 逆に、というわけではないが僕もトイレで立ち往生したこともある。
 その日は腹の調子が悪いな、と思いながら家を出た。案の定、電車の中で猛烈な便意を催し、やむなく途中下車。
 初めて降りる駅ではないが、トイレがどこにあるかは意外と分からない。こういう場合、どこにあろうと「なんでそんな不便なところにッ!」と悪態をつきながらトイレにむかうことになる。
 男性用トイレに入ったら1台しかなく、かつ「故障中」。どういうこっちゃ、夜のうちに直しといてよ、と苛立ちピークになりながら出たら「みんなのトイレ」があった。

 「みんなのトイレ」を使うのには抵抗があった。子どもが小さいときは本当にありがたい空間だった。今でも渋谷あたりでコスプレのために籠っているギャルなどを見ると腹が立って仕方ない。ましてや逢引きに使う芸能人など言語道断。本来使うべき用途を優先するべきだ、という発想からは、健常な自分が使うことはないと思っている。
 だが、背に腹は代えられない。そそくさと入り、用を足し、すぅっと楽になった。さぁ長居は無用、一刻も早く出よう、と手を洗い始めた時。どういうわけか、くしゃみが連発で出た。手が、勢いよく水を流す蛇口に当たった。跳ねた水が、僕の胸から腹にかけて水を飛ばした。
 季節は真夏。スーツ勤務ではない僕は、よりによって白いTシャツを着ていた。びっしょりと水に濡れたシャツは、肌に張り付いて身体そのものを透けさせていた。
 ……これは、出られない。
 慌てて脱いでシャツを絞る。だが、着るとやはりペッタリと身体に貼りつく。
 途方に暮れていたら、スマホが鳴った。いつも同じ時間に出勤する僕が、かれこれ20分近く遅れている。上司がそれを不審に思ったのだ。

上司「どうした?」
僕「出勤途中です。今、~駅のトイレで」
上司「トイレ? 大丈夫なのか? 来れそうか?」
僕「行けますが、出るに出られないというか、すぐには無理です」
上司「分かった。無理しなくていい、病院に行け」
僕「いや、身体は何ともないんです」
上司「いやいや、無理はしないほうがいい。吐いてるのか」

 いやいや、いや、いやいや、と押し問答をしていたら、アラーム音が鳴ってドアが開いた。駅員が立っている。そういえば、「みんなのトイレ」は事故防止のために30分経つと警報が鳴って自動解錠する。
 駅員に事情を話して謝罪し、服を乾かすために一駅歩いてから出勤した。遅刻届を書きながら、理由をどうしたものか、と途方に暮れた。

「やさしい世界」とは?

 いつも乗る車両・扉は、ターミナル駅の階段の前にあたる場所。半分ぐらいの人が入れ替わるので、座れる確率が高い。
 ある日、目の前のサラリーマンが立ったので代わりに座ろうとしたら、「おぉぃっ!」という声がした。そして、隣一人挟んだ先からオッチャンが身を乗り出してきた。
「おめぇ俺のほうが先に乗ってただろうが! なに座ろうとしてンだよ!」
 もう一度言う。僕とオッチャンの間にはもう一人、サラリーマンがいた。隣人であるサラリーマンと競り合いになるならともかく、一人挟んだオッチャンからの攻撃は、大陸横断ミサイル感がすごい。
 オッチャンはサラリーマンを押し退け、僕に体当たりするように身体を押し込んでくると、そのまま目の前のシートにドカッと座った。
「年寄りに席を譲るなんて子供でも分かるだろ、しょうもねぇ、バカか」
 大声というほどでもない声で悪態をつきながら腕組みをすると、うつむいて寝の体勢に入った。

 僕もまだ四十代だし、体力はあるほうだ。だから座れなかったのはどうでもいいのだが、朝から見知らぬ人に悪態をつかれるのは、なかなかクるものがある。
 このモヤモヤをどうすっか、と思いつつ、とりあえずFacebookには書いとくか、と書き込みながら、ふと思った。こういうのを短文で「今朝のクソ老害」とか書きながら写真までアップするのがTwitterなのか(←偏見)。そりゃ書きたくもなるだろうし、その結果は炎上するだろうな。SNSってのは剣呑なツールだ。
 なお、その投稿は(注:写真は撮ってないよ)Facebookでけっこうな反響があり、「朝からおつかれさま」とか「怒り返さなかったのは偉い」とか「そういう輩は無視することだよ」とかが多かった。

 それはそれとして。
 エスカレーター、右側空けてますか(大阪の人は左側)? 空けてますよね、都内の人。目黒駅とか新御茶ノ水駅とか、長い長いエスカレーター、やはり片側空けの文化が残っている。
 いやぁ、すごい。エスカレーターに乗るために、日本人特有の「強制されることなく長い行列を作って順番を待つ」という光景。片側を開けなければ行列は半分になる……いや、たぶんなくなるのにね。
 この光景を「片側空けは合理的に見えて非合理的なんじゃないか」と中高生のころから思っていた。四半世紀以上の時を経てやっと「片側空けはエスカレーターの稼働率を下げ、事故も起こしかねない」という言説になり、埼玉県では「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならない」という条例が2021年10月に施行されたが……それでも浸透しているとは思い難い。
 もともと、片側空けは欧米で行われていたもので、日本では1967年の大阪梅田駅での呼びかけが発祥らしい。その頃は「急ぐ人は追い越しレーンを使おう」という発想だったそうだ。今の言葉に置き換えれば、ダイバーシティに配慮していたとも言えなくはない。
 じゃぁ、なんでそれが今や悪評価を受けることになったのか。

 労働人口の増加、というのはあると思う。女性の社会進出だとか就労年齢の長期化だとかで、労働人口は増えている。それが、毎朝の色々な通勤風景を織りなしている。
 人間が増えた分、エスカレーターという交通網は、より高い稼働率を求められ、それが「一部の人のための空きレーンを作ること」と天秤にかけられたということかもしれない。
 他方、それでも「片側空けるのが常識だろう」という人もいる。それを封じ込めることにも労力がかかる。結果、「伝統にしたがい片側を空けよう」ということなのか。

 少し話は変わるが。
 僕の父は若い時から車の運転が好きだったが、僕よりはだいぶ短気で、交通マナーの悪い人にはよく悪態をついていた。昭和のころは街を行く人も車に遠慮する風潮もあった。ガードレールや信号機も少なかった。そのため、横断歩道を渡るときはなんとなく小走りになったり、周囲をよく見て車が近づいてきたら止まって避けたりするのは当たり前。車に対する警戒心があり、それが配慮の姿勢になっていたともいえる。
 だから、車が待っていてもダラダラと渡ったり、周囲をあまり確認せずに出てきたりする歩行者や自転車がいると「周囲が見えていない・気を遣えない」「運動能力が低いから外出させちゃいけない」などという文句になる。それを、小学生ぐらいの時はよく聞いていた。
 ところが、同居していた祖父母が古稀近くになると、温度感が変わってきた。交通量も増えたが、信号やガードレールも増え、交通ルールも変わった。自分の親が「周囲の確認も危うい運動能力」になりゆくなか、価値観が変わったのだろう。「自分のペースで歩いていいから。こっちが渡っているあいだ、車は待たせておけばいいんだから」と言うようになった。

「社会に余裕が出てきたからかもしれない」と、その父が言ったことがある。「余裕がないときのほうが、みんなが一生懸命だっていう前提がある。余裕があると、“もっとこうしてほしい”と他人に期待するものが増えて、対立する。なんか逆説的だな」

 なるほど。たしかに逆説的だが、言わんとするところは分かる。周囲に気づかいを求めて、それを「やさしい社会」と称する傾向もあるが、どこかに引っかかりを覚えるのは、マナーと気遣いを混在させているところにあるように思う。
 具体的に言えば、エスカレーター下でスーツケースをもってタムロしているのも同じように「やさしく」見守れるだろうか。

 東京駅周辺や空港駅に多いのが、エスカレーターから降りた観光客が、降りたところで足を止めてホームを見回したり、スマホを見たりする。その間にも後ろから人はおりてくるので、玉突き事故が起きる。自分が乗るエスカレーターの先にそういう集団がいるのが見えると、エスカレーターの手すりに飛び乗って滑り降り、一気に蹴散らしてやろうか、と思ったりもする(ジャッキー・チェンの映画にありそう)。
 ここにダイバーシティを感じるべきなのか。
「旅行中ぐらい周囲への気遣いからも解放されてしかるべき」?
「慣れない土地に来ているのだから大目に見てあげて」?

 こういうなかで、思うのだ。
 「やさしい世界」とは「周囲で困っている人がいないか・自分がこうすることで困る人はいないか」ということをみんなが考え、それが相互の認識として調和していく世界なんだよなぁ、でも人間関係がそこまで総体として成熟するのは「余裕」を求める世の中では可能なのか、と、スーツケースを引きずる集団を見るたびに思う。
 そして、そう思うたびに「我が振り」はどうなのだろう、と自省する。日常にいる「迷惑人物」は、本人が迷惑をかけているという自覚のないことの方が多い。だから、自分もそうかもしれない。

その会話、聞こえています

 人の話を盗み聞きするような趣味はないが、聞こえてくるものはある。仕事中はPCや書類を見ていることが多いので、近いところでの雑談にも反応しないことが多いが、電車の中だと他に気を向けるべきものがないからだろうか。
 ついでに言うと、大声の会話よりは普通の声のほうが耳にすんなり入ってくる。自分と関係がない大声の会話って、一定のラインで飽きてシャットダウンできるのかな、と思うのだが、そういう研究結果があるかどうかは知らない。

 夜の電車、ほろ酔いの女子たちが繰り広げる女子トークはちょっと面白い。ぽわんとした天然系の女の子がはなすノロケ話を、女友達が茶々を入れながら聞いているのは何となく微笑ましい。
 一方で、酔っ払ったオッサンが部下?の若い女性に絡みながら「~ちゃんの家で飲み直そうよ」「1杯だけで帰るから」みたいになっているのを見たこともある。しかも「~ちゃん」がまた押し切られそうになっているから、気になって仕方なかった。結果、もう一人いた女性がオッサンをなだめすかし「ほら、~さんの降りる駅ですよ。お疲れさまでした」と強引にリリースして終わったが、逆だった場合、僕は自分が乗り過ごしてでもそのあとを追って駅員に通報するべきかとかも考えていた。

 ここまで色々なオッサンを思い返してきていたが、ヤラカシてる人たちばかりではない。
 ある休日の夕方に乗った電車での2人のオッチャンたちはシブかった。何かの会合の帰りらしいが、会話の内容としては定年退職をしたのか早期退職になったのかは分からないが、片方が訥々と身の上を語り、もう片方は聞きながらたまに質問を入れる。50歳で身体を壊したときにちょうど事業も縮小する方向になったのが決まった、自分はそのとき離婚調停も終わっていたから、一番動かしやすかったのだと思う……。気負いも自虐もない淡々とした話し方が耳に染みる。
 これに対するもう一人のオッチャンの、聞き出し方がまたいい。相槌の打ち方、質問の差し込み方、間の取り方もすごいが、さらに「今日来ていた~さんも、同じような経験をされているから、次回会った時に話をしてみるといいですよ」「~さんは大手企業の企画部長をされていたから、そういう話には興味あると思いますよ」と、その会合に来ていた人たちとのパイプも作っていた。
 すごくじんわりとくる思い出だったけど、今回振り返って思った。その会合、宗教とかマルチの勧誘じゃなかったのかな。大丈夫かな。

 最後はちょっと面白かった話。
 終電も近い電車の中、大学生ぐらいの男女。「次のシフトが」とか言っているから、バイト仲間なのだろう、と思っていたら、女の子がいきなり「あれっ、今何時ですか?」と言った。男の子が腕時計を見て言った。
男「0:05」
女「あぁ、二十歳になっちゃった」
男「えっ、誕生日なの? おめでとう」
女「二十歳の誕生日を電車の中で迎えてしまった。なんか、ショック」
男「それはしょうがないじゃん」
女「二十歳は特別じゃないですかぁ」 ※二十歳成人の時代の話。
 だってこの時間までバイトシフト入れてたんじゃないの? と、僕は思った。彼もそう思った、かどうかは知らない。少なくとも「二十歳の誕生日を~さんと一緒に迎えらえて嬉しい」という感じではない。
 しばらくそれに関する愚痴を言ったところで「じゃぁ、お疲れさまでした」といってドアの方に身体を向けた。そして「二十歳になって、初・電車を降りる」と呟いて降りて行った。

 おいおい、今の一言は面白かったぞ。これからの一時間だけでも、「二十歳になって初・信号を渡る」「二十歳になって初・帰宅する」「二十歳になって初・寝る」と続くのかな。いいね、まだまだ「初」が多くて。
 俺も探すかな。「6月になって初・散髪する」とか。

今日も

 通勤途上で見かけた諸々の景色や体験を「車内観察日誌」としてFacebookにあげると「よくこんな面白い状況に出くわすね」と言われるし、たまに面白すぎると「作ってるだろう」ともいわれる(男子高校生のトイレ話とか)。ちゃんと真実ではあるのだけど、ムキになって主張するほどの話でもないので、ニヤニヤ笑って流すことが多い。
 1年間の労働日数を200日としたところで、年間400回、20年で8,000回は電車に乗っている。土日もあるし、出張で複数の電車を乗り継ぐこともあるし、早朝も深夜もある。と思えば、「あんな人がいた」「こんなことがあった」の10個や20個は誰でも出てくるのではないか、と思っている。僕の場合、印象に残ったらFacebookに書くので、フォローしてくれている方には「また面白い話」と思ってもらいやすいし、僕自身もいただくコメントとあわせ記憶として定着しやすい。

 通勤は日常の反復動作だが、ちょっとしたドラマもあるし、教訓もある。ゲームしたり音楽を聴いたりしていると、そういうのを見逃しやすいだけだろう。
 ただ、一つだけ。自分がこうやって周りを観察しているように、自分も誰かの観察対象になっているかもしれない。それは忘れないようにしている。
 今日も日常の風景は、多くの人によって作られている。僕自身も含めて。


いいなと思ったら応援しよう!