【不動産契約】それは春闘ともいえる行事
路線価上昇……
いまだに、こういう記事を見ると小さくため息が出る。無人のATMコーナーを管理している時から20年近い、癖だ。
電話に出ると、「どこそこのATMコーナーを貸している、何々という者ですが、ご相談したいことがあるのでお時間もらえませんか」……“そういう話”はだいたいこうやって突然始まる。
「いつもお世話になっています。けっこうですよ。お都合のよろしい時間帯をお伺いできますか」
「ご挨拶していないのはこちらも同じなので、大手町に伺おうと思っています。差し支えなければ急ですけど今日の午後は、何時でも行けますが」
ご足労いただくのか。ますます“それ”だな。時間を決めて電話を切ると、PDFでデータベース化された賃貸借契約書と、出店当時からの路線図の推移データを、社内のシステムからダウンロードした。
昼ご飯を食べてから家を出てちょうどいいぐらいの時間に、エヌ氏というご老人と三十歳前後の男性が受付に現れた。応接室に通して名刺を交換する。男性の名刺には税理士という肩書がついていた。
「エヌさま資産管理のアドバイスをさせていただいています」
「そうですか」
若い。とても勢いがある。でも、勢いしかなさそうだ。税理士が促すと、ご老人は震える手でカバンから新聞紙を取り出して話した。たどたどしかったが、つまりは「都内の賃料が上昇傾向にあるから、今貸しているATMコーナーについても賃料の見直しをしてほしい」ということだった。
エヌ氏が、事前に用意されたセリフを言い終わるのを待ったように税理士が話をつづけた。
「聞けば、1985年にエヌさまと賃貸借契約を結んでから、一度も賃料の見直しをしていないそうですね。契約書には『経済環境や租税公課の変動に合わせ賃料を見直す』と明記されています。こちらの新聞によれば物件による差はあれど中古物件でも5%~10%の上昇が見られるとあります。相応の引き上げをご検討いただきたい、というのが趣旨です」
エヌ氏……ご老人のパートから税理士のパートに至るまで、全て予測の範囲を超えていなかった。似たロジックでの賃上げ交渉ならもう何度か経験済みだ。が、私は極めて真摯な姿勢を崩さずに言った。
「お話は承りました。こちらの記事、私も読みましたが……上昇傾向といわれる地域は港区・中央区になってますよね。エヌさまの物件は足立区です。この記事のもとになる調査資料を調べてみましたが、足立区は横ばいとのことでした」
税理士は慌てて新聞のコピーを取り上げた。その仕草に、底の浅さが見えてしまっている。若いねぇ。
「さりとて、三十年近い間まったく賃料を見直してきていなかったのも事実なので、周辺地価の変動に合わせて、とは思っています」
「は、はい」
「が」私は手もとに置いた契約書の写しの下から、路線価・公示地価の推移表を出した。「物件に一番近い路線価と公示地価ですが、賃借開始の時と今とを比べると、下がっています」
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