07「Tisa」/錆付くまで
1月20日リリースアルバム「錆付くまで/宮下遊」の感想noteとなります。
特典のコンセプトブックや対談CD、非公開MVについてもネタバレ有で触れてるので、未読未視聴の方はご注意ください。キルマーアレンジCD買いそびれ民(憐)。→2月27日追記:親切な遊毒者様に1枚譲っていただきました。ありがとうございます!note追加します。
錆付くまで/クロスフェード
生成された構造が錆付く前に、文字に留めておこうと思った。
本当にやばいのはこっちだった
【Tisa】
表題に書いた通りである。クロスフェードにて多くのファンが【es】で殺され、これ以上にもっと強烈な殺傷要素が全曲迎え入れた際に襲いかかってくると気づいた時、身震いしたのではないか?
しかし、【es】の狂気性はまだ序の口。現実から隔離した危険な妄想に酔っているだけだったのではないかと勘繰るほどだ。聴かなかったことにはできない。【Tisa】はクロスフェードでは流れなったラスサビで、とうとうその禁断の妄想を実行に移していた。
【Tisa】は【es】へのアンサーとして位置付けれていると、インタビュー雑誌で本人が答えていた。数字の「9」を意味するとも言っていたが、その意図に何を察しただろう?
私などは、単に数字として見てしまう。個をカウントするために用いられるラベルとしての「9」。歌詞の後半を読むに、ティスア(9)と名のつくものに囲まれている描写があることから、それはある条件下において、複数であるみたいだ。
楽曲の狂気性やティスアという美しい響きが独自の暗号にも聞こえることから、連続性犯罪者が9人の少女もしくは少年を監禁し、そこに閉じ込めて残虐な行為に及んでいるのかななどという下級な映像なら浮かんだ。これをベースにもう少し入り組んだストーリーも考えられなくはないが(例えば、ナンバー呼びされることのある囚人たちへの異常な仕打ち等)、まぁ考えてもそれほど楽しいものではない。物語の主義主張・葛藤を叶えるために用意された苛烈で背徳感を煽るシーンは許容できるのだが、シーンそのものの刺激が主体となったエンターテイメントをあまり楽しめない。せいぜい、映像技術の面白さや演者の白熱した演技、生理学的に正しい人体の反応なのかなど素人ながら考えて時間を潰すにとどまる。SMスプラッタの美学は人それぞれ理想のシュチュエーションというものがあるのだ。
この【Tisa】はテーマがテーマなだけに、一般的にかなり人を選ぶ曲なのだが、ファンとして提供された時、嫌悪感を抱かずむしろ面白くて笑ってしまったのは、宮下氏がこれを作って歌っているという前提があるからに他ならない。
彼は意図してか無自覚なのか分からないが、キャラクター付けとして「闇深きヒール」や「掴み所のない狂言回し」のようなポジションが板についているように思われる。この見解には、ただのファンよりは彼の素顔を知っているであろうてにをは氏にも同意が得られそうである(君論CD後半より)。
悪役・いじめ役が生き生きしている物語は、どんなジャンルであっても、ある一定の面白さを感じられる。ラピュタやポケモン、最近では鬼滅の刃など、いじりがいのあるユニークな悪役が人気を支えた要素は大きい。各所でパロディを生み出し笑いを呼んだ。宮下遊氏が反社会性をちらつかせる楽曲に身を投じる時、これと似たような高揚感を覚える。現実で迷惑行為に及ぶのは困るが、同時に常軌を逸した価値観の台頭というのも気持ちがいいものだ。みんな心のどこかで少しずつサイコパスに憧れている(これをDIO論という)。悪が肯定される情景はなるべく「フィクションだ」と了承した上で閲覧したい。その眠れる欲望を具現化した舞台に、演者・宮下遊は適任なのだ。彼が人狼ゲームでずっと平民をひき当てていても面白くないだろう。人狼となって民どもを食い尽くすのが彼の役どころだ。
【Tisa】を聴いている間は、悪役の力は絶大なものだろう。こいつには敵わない、最強の敵が現れたと、こちらも服従するしかない。しかし曲が終わり、無音の間の中でふと湧き上がってきたのは「あ〜ヤッチャターこの悪人、天罰下るな」という安心感である。この辺りは、マロン菩薩様の慈悲(編曲)によるものであると思う。悪を悪として描くためには根底に善意が必要だ。かくして、地獄に仏は現れた。