パーティーを続けよう〜祝祭と社会関係資本〜
まえがき
はじめまして。関西を中心にPAやDJとして活動している「KiX Sound System」のMooseheadです。
人生のドン底だった2012年から地元の海や山で小さなパーティーを始めたのですが、少しづつ社会関係資本が蓄積されていき、最近では2000人以上も動員する野外フェスや花火大会に呼ばれるようになりました。
このnoteでは11年前に私がパーティーを始めた経緯と当時の社会背景を書き綴っています。あの頃の私のように体調が悪くて落ちている人が、これを読んで少しでも元気になってくれたら本望です。
背骨が溶けたり、スマホを失くしたり(3日前)色々あるけど、とにかくパーティーを続けよう。
1. 踊ってはいけない国
2012年4月15日AM6時39分。
テクノバンド「電気グルーヴ」の石野卓球氏が短い英文をツイートした。
「dance is not a crime.」
同日、AM1時30分頃。
福岡県警は風営法違反を理由に石野氏がDJをしていたクラブ「O/D」を摘発(現在は閉店)。
同年4月5日。
大阪府警はクラブ「NOON」の経営者等の8人を同じく風営法違反の罪で逮捕(2014年に大阪地方裁判所より無罪判決)。
2012年の日本は「踊ってはいけない国」と錯覚するほど司法が暴走すると同時に、中学生の必修科目にダンスを追加するよう学習指導要領が改訂されました。
総合失調症のような日本政府に日本中のDJやクラブ関係者が踊らされていた頃、背骨がなかった私は地元の海でパーティーに明け暮れていた。
2. 背骨がない
石野氏がツイートした日から43日前の2012年3月3日。私は救急車の中にいた。細菌が背骨を融解して脊髄を圧迫する「化膿性脊椎炎」を罹患し緊急搬送されたのである(化膿性脊椎炎の症状には個人差があります)。
感染の初期症状だったのか、2007年頃から突然めまいがして倒れたり高熱が出たりを繰り返してはいたのがだ、精密検査後の医者の一言はまさかの「背骨が溶けている」だった。
2兆個のギャグを持つお笑い芸人「FUJIWARA原西」さんの「背骨をひっこ抜いたら立ってられへ~ん」を全く意図せず体現してしまった。関西人なので笑いのために体を張る気概は持ち合わせているが、背骨が溶けるのは本当に痛かった。特にくしゃみをした時。
緊急入院後、手術で背骨を切除されてチタンボルトを挿入された私を待っていたのは先の見えないレントゲンと血液検査の日々だった。
と、陰鬱な入院生活を匂わせたが、無駄に筋肉質で体力もあった私は医者の予想を超える早さで回復して病室を飛び出し始める。
■当時の入院ルーティン等
①病院の9階から地下2階までの非常階段をひたすら昇降して下半身を鍛える
②フリーWifiスポットを求めて病院中を歩き回る
③病院を抜け出して向かいのファミマでファミチキを食らう
④病院を抜け出して向かいの大学の図書館にいく
⑤医師と看護師が対象の「医療英語教室」に参加して「leukemia / 白血病」など日常生活でほぼ不要な英単語を覚える
いま思い返しても日本一元気で迷惑な病人だったと思う。
3. そうだ ビーチ、行こう。
入院生活も1ヶ月を超えて外出許可がおりると、私は友人たちがパーティーをしている1キロ先のビーチへ通い始めた。
平日が休みのKやHくんに週末が休みのNくんやSさんなど、あの頃はビーチに行くと必ず誰かがパーティーをしていた。
そんなパーティー仲間の共通点は家に「テレビ」はないが「発電機」や「スピーカー」や「ミラーボール」はあることだった。
Kさんは「テレビ」どころか「家」すらなくてヨットに住んでいた。そして、住居兼のヨットで太平洋を横断して ハワイへ行き、復路でヨットを沈没させてアローハーと叫びながら飛行機で帰ってきた。
4. NO BORDER
週8でパーティーを続けているとビーチの対岸に関西空港があるため「ジェットスター」や「タイ航空」に務める外国人たちが遊びに来るようになった。
航空会社や国籍で多少の差はあるだろうが、次のフライトが決まっている彼等の滞在ビザは「出発日まで移動していいのは近畿二府四県まで」などの制限がある。そのため、羽田空港の関係者が蒲田に集まるように、特に理由がなければ大半のパイロットやCAは出発日までを空港近くのホテル周辺で過ごす。
四六時中、ホテルの近くでハウスミュージックやテクノを大音量で流している私たちはそんな彼等の需要に合致したらしい。タイムテーブルすらない小さなパーティーに少しづつ人が集まるようになっていった。
当たり前だが音楽と海の前では人種も国境も関係ない。
5. そうだ オールナイトパーティー、しよう。
病人であることを忘れて遊び呆けているうちに退院日が7月3日に決まった。私とKは退院祝いも兼ねて七夕の7月7日(土)にビーチでオールナイトパーティーを開催することに決めた。そして、面識はあるがバラバラに活動していた友人たちに声をかけ始める。
■担当
・サウンドシステムはHくんとK
・ドリンクはKくん
・DJはHくんにKにAにand more
・SとDちゃんはジャンベ
・Kは短冊用の竹を伐採
・Nくんは松林でバンドセッション
背骨とお金はなかったが時間とバイブスは売るほどあった私は病院の談話室をリモートオフィスにして細かいことをどんどん決めていった。そしてパーティー名はビーチからも談話室からも見えている関西空港から頂戴して「KIX」にした。
6. 病人と囚人のあいだ
退院まで1週間に迫った6月26日。
いつも通りレントゲンと血液検査を終えると担当K先生の顔が険しい。
ない背骨をバイブスで支えて遊んでいたせいか血液検査の結果が悪化したらしく退院を延期すると言っている。
入院中なのに「松崎しげる」より日焼けしていた私は今更ながら自分が不自由極まりない病人であることを思い知った。
ラッパーD.O氏の「JUST PRISON NOW~D.O獄中記~」読了後にも感じたが、囚人と病人はとても似ている。罪状や病状によるが両者とも「時間」はあるが「自由」がないってハナシ。
しかし、消沈していた私に光明が差す。子曰く来週の検査結果が良ければ「退院」はダメだが「外泊」はOKらしい。私は目標を「退院」から「外泊許可」に切り替え、血液検査はもちろんK先生や看護師さんたちの心象を改善するため、毎日続けていた外出を我慢することにした。
外出をしなくなった私は挨拶を交わす程度だった同室の人生の先輩たち(ほぼ70歳オーバー)と積極的に会話を始めた。人と会話する時は相手との共通点を見いだしラポール(信頼関係)を形成するのが基本である。病人の共通点はもちろん「病気」だ。
「兄ちゃん若いのにそんなコルセットしてどこ悪いねん?背中?脊髄?えらい痛そうやな。おれか?俺は腎臓があかんねん。胃も半分ないよ!ガハハハハ!」と、病人同士のラポール形成は容易である。会話は病気自慢になりやすく、内容は暗いが声はでかい。
そんな病人同士の絆を深めているうちに内申点が上がったのか、翌週の血液検査は無事合格。仮釈放気分で申請した外泊届けは無事受理された。
7. パーティーを始めよう
2012年7月7日AM10時。
外泊許可証への記入を終えた私は1週間ぶりにビーチへ向かった。2時間前の土砂降りが嘘のように晴れ間がのぞいている。
いつもの場所に向かうとすでにKとHくんがいた。背中を捻らないようにコルセットをきつく締めて、サウンドシステムを3人で組み立て始める。
BBQセットを抱えたKの友達やジェットスターのパイロットやCAもやってきた。誰もが今から始まるパーティーにワクワクしている。12時間後に300人以上が踊り狂って警察が10人もやってくるなんてこの時は誰にも想像できない。
11年経った今でも越えられない最高のパーティーが始まった。
8. パーティーを続けよう
2012年の風営法騒動からさらに遡る1994年。イギリスでのちに悪法中の悪法と呼ばれる「クリミナルジャスティス法」が法制化されました。
これは違法薬物の「MDMA / エクスタシー」の蔓延を防ぐため「反復するビートを持つ音楽を二人以上で聞いてはならない」法律で、施行後、数多くのDJやクラブ関係者が数年前のコロナ禍のように職を失いました。
しかし、コロナ禍を生き延びるために一部のDJたちがネット配信を始めたように当時のクラブ関係者やDJたちも、場所が限定されないレイブパーティーや国外の新天地に活路を見出して生き残りました。その代表例が現在も世界のクラブシーンを牽引し続けるスペインのイビサです。
その後のイビサの発展と比べると些細な話ですが、パーティーを始めた地元のビーチで今年開催された「ENJOY!りんくう2023 りんくう花火~ぼくたちのスマイル花火大作戦~」で私の所属する「KiX Sound System」が音響の一部を担当させて頂きました。
「風営法」や「クリミナルジャスティス法」に限らず、外的要因に流されずに本当に好きなことを続けていると必ず誰かの役に立つ時がきて、いつか自分たちに返ってくるんだと思います。
あとがき
この場をお借りして背骨もお金もなかった頃の自分を支えてくれた家族や友人たちにお礼を申し上げます。離れていった人たちも本当に大切な人を教えてくれてありがとう。
また、今回執筆のキッカケをくれた卓身君もありがとう。拙い文章を最後まで読んで頂いた皆さんも本当にありがとうございました。
当初は2012年から2022年の10年間にあったことを書く予定だったのですが、スラムダンク並に4ヶ月しか進みませんでした。野外フェスやトンネルのことはまた改めて書くつもりです。
奇しくも「クリミナルジャスティス法」が施行され「関西国際空港」が開業し「今夜はブギー・バック」が発売された1994年にスチャダラパーが歌ったように、とにかくパーティーを続けよう。