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「考える」ことを考える
はじめに
最近、世界的に人間が“考える”ことを放棄していると、何となく思っている人は私を含めて少ないくないと思います。その原因をスマホやAIの進化や普及に求める人もいるでしょう。私もかつてはそうでした。しかしよく考えてみると、それは単なる“結果”に過ぎないことに気がつきました。「え、それってどういうこと?」今日は私なりにその答えを探してみたいと思います。
脳の栄養
人間の脳は実によくできています。だからなのでしょうか?私たちはこの仕組みを維持するために、摂取カロリーの約4割を消費しなければなりません。最近は食料品を買うとたいてい消費カロリーが表示してあります。仮にあなたが100カロリーの飲料を手にしたとしたら、実にその内の40カロリーは脳を潤すために使われるのです。1万人の労働者の内、4000人がその維持のために働いている。結構な割合ですよね。当然、脳を使えば使うほど、私たちはそれに見合うカロリーを摂取する必要があります。パソコンでもそうですよね。使えば使うほど熱を持って熱くなる。エネルギーをたくさん消費している、つまりそれだけ電気を消費しているわけです。
その昔、人類が誕生した頃、当然ですが私たちは狩猟採集の生活を送っておりました。天候や猟の不首尾によって、食べ物にありつけない、そんな日々も続いたことでしょう。そんな影響からか、人間の体は出来るだけ「効率的に」エネルギーを消費する仕組みを作りました。脳もその例外ではなく、エネルギーを出来るだけ生存そのものに利用するよう働くようになります。なにせ4割ものエネルギーを消費しないと動かない大仰なシステムですから。どこかの国ではありませんが、真っ先に“仕分け”の対象となったのでしょう。
私たちは頭を乗せているだけで、40%ものカロリーを取られてしまうのですから、狩猟が上手くいかないことが続くと辛いですね。そんな時、脳はどう考えるか?脳は働けば働くほどカロリーを消費しますので、自分が人間に出来るだけ「使われないようにすればよい」と考えるわけです。
脳の呪縛
脳を使わないとは、つまり「考える」ことを人間にさせないようにする、ということです。そうすれば脳は基本代謝量のカロリーしか消費しません。余ったカロリーを生存システムに振り分けることが出来ます。それは人類(の脳)が長い狩猟生活の間に獲得した、効率的なエネルギー消費策だったのです。要するに、私たちは基本的に「考える」ことを脳によって抑制されてしまう傾向にある、ということなのです。私たちは常に、このような“脳の呪縛”にとらわれているといっても過言ではないのです。冒頭に私が書いた文明の利器というのは、つまりは脳そのものの欲求によって開発されたものと言えるのです。ですから、私たちは脳によって“考え”ないことが運命付けられていると言えるかもしれません。ですから、最近人類がマスコミやSNSなどといったメガマス的な情報に振り回されることが多くなったのも、個々人の性格や思考によるものではなく、人類そのものに備わっている「脳の代謝システム」によるところが大きいのではないか、と私は思うのです。そう考えると、自ら「考える」ことを放棄して、他者やAIなどに問題の答えを求めてしまうことへ疑問も、そもそも人間というのはそういう生き物なのだ、と考えれば腑に堕ちます。ですから、このような脳の呪縛に捉われない生き方をするにはどうしたら良いのか、それは簡単で、脳の欲求に逆らえば良いと思います。つまり、どんどん頭を使ってカロリーを消費されてやれば良いのです。
呪縛に逆らって「考える」
一休さんの時代。京都から東京まで行こうと思えば、庶民は大抵歩くしかありません。でも現代は新幹線であっという間ですね。もし小学生が京都から東京まで独りで歩いて行ったとしたら、たちまちSNSで大バズリでしょう。室町時代ではそんなことは当たり前ですから、誰も見向きもしません。昔の人は、確実に今の我々よりも健脚だったことでしょう。でなければそんな長旅を貫徹することは出来ません。逆に寝たきりになってしまうと、足の筋肉は途端に衰え、歩けなくなってしまいます。
私はこのことに「考えること」に必要な要素があると思います。足は使えば使うほど健脚になります。人間の体は、基本的に使えば使うほど丈夫になる傾向があります。メガマスに流されず、自分で考えて答えを出すためにはどうしたら良いのか、それには頭をどんどん使って物を考えるクセをつけることが一番だと思うのです。じゃあ本屋に行って計算ドリルを買ってくれば良いのか。それは脳のスペックを維持するには役に立つとは思うのですが、思考力を鍛えることには繋がらないのではないでしょうか?パソコンもそうですが、スペックの高いパソコンを買っても、動画しか見なければ宝の持腐れです。スペックを上げることも大切ですが、何より大切なのは「考え方の引き出し」を増やすことだと思います。それにはたくさんの情報に触れる。出来れば趣旨の異なる情報であることが望ましいですね。自分の好きな情報だけでは偏った見方になります。好きな物ばかり食べていると体に不調が出ますね。それと同じことです。そして誰が考えても「答えが出ない難しい問題」を考えてみることでしょう。答えを出す必要ありません。問題に向かって、本や新聞、ネットから得た知識を使って自分なりにああでもない、こうでもないと頭を使うことです。とにかく「脳の呪縛」を振り払うがごとく、脳を使い倒してやるのです。そうする内に脳は知らず知らずのうちに鍛えられていきます。何もしなければ、私たちはその呪縛に捉われ、どんどん脳は退化していきます。なにせそれが脳そのものの要求なのですから。今後も何とか人類が存続していくために、その要求を受け入れないだけの力を持ちたいものです。
さいごに
ギリシアの昔、ソクラテスの時代には新聞も無ければネットもありませんでした。それでも彼らは様々な事象について思考し、現代の私たちにとって貴重な「考え方の引き出し」を残してくれました。情報に恵まれていないからこそ、彼らは日々金にもならないのに真剣に“思考”していました。
現代は情報に溢れています。それは逆に「真の情報」に乏しいことを意味しています。その意味で、私たちはソクラテスと同じような時代を生きていると言えます。今こそ、私たちは真剣に“思考”することを見直すべきでは無いでしょうか?でなければ、早晩AIによって私たちの生活が規定され、不自由な生活を強いられることになるでしょう。AIの開発に携わっている私の知人が、かつて電話口でこう言っていました。「自分たちは神を創造しているんだ」と。彼の一言が何を意味しているのか?私たちはほんの数年後に、その結末を見ることになるかもしれません。
おしまい
参考文献:「脳の闇」中野信子著