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何かをするのに「意味」は必要なの?
私の体験した まあまあ”痛い”ひとこと
「音楽の理屈を知らない素人が旋律だけを書いて、後はプロにお任せなんて曲に”意味”なんて無い。作曲は技術と経験に裏打ちされて、”独力”でするもの。だからこんな曲を作っても評価はされない。お金の無駄だから止めた方が良い」
なんて言われたことが昔あったっけなあ。なるほど。もしこれがこの世の絶対的真理とするなら、noteの世界で私の提供する楽曲に心を振るわせて、スキしてくれた人たちの感性も「無意味」ということになりますね。そんなことがあって良いはずはありません。確かに、スキしてくれる人は曲を聴いて下さった方のだいたい10%ぐらいです。それが多いのか少ないのか私には分かりませんが、数に関わらずスキして下さった方々の気持ちを無に帰するような発言はいかがなものでしょう。それに、私は音楽の世界で評価の対象となるようなことはしていませんし、して欲しいとも思っていません。私はそれが欲しくてやっているわけでもないので、評価があろうが無かろうが関係ありません。聴いて下さる人の気持ちを揺さぶることが出来ればそれで良いです。音楽はそういう物だと思いますし。もちろん、音楽を実際に手掛けた音楽家にとって評価は重要なことかもしれませんけどね。残念ながら、こうしたネガティブな発言を私はこれまでの人生で何度も耳にしました。悲しいことですが、この国の音楽の世界には、こうした一面が潜在的にあるようです。
意味って何だ?
そもそも何かをする時の「意味」って何でしょう?意味は一体誰のための物なんでしょうか?何かをやろうとする時、意味はそんなに重要なのでしょうか?
思うに、冒頭の文言を並べた楽士にとって、私の見せた譜面はただの紙切れであって、高いキャリアを積んだ作曲家が丹精込めて作曲した作品であろうが、それは無価値であり無意味ということです。しかしそれは彼にとっての話であり、私やその曲を聴いて心が動く人たちにとっては関係のない理屈です。意味があるのか無いのかは、意味を論じる人間にとって必要なだけの「みてくれの存在」でしかないと私は思うのです。つまり、意味があるか無いかという話は至って汎用性に乏しいということですね。人によって見方が変わってしまいますので。「意味」そのものの意味も人によって違うため、普遍的とは言い難いのです。そんな普遍性のない物にすがろうとは私は全く思いません。
音楽にせよ何にせよ、それぞれの受け手の心が動けば、作品に意味があろうが無かろうが関係ないのではないでしょうか。逆に、どんなに技術的に優れていても、人の心を震わせるものでなければ、局所的な称賛を浴びることはあっても、人口に膾炙することはありますまい。まあ、自分の作った作品が大して人目に触れることに価値観を見出さない人にとっては関係のない話ですけれど。私は作った以上、出来るだけたくさんの人の耳目に触れて欲しいと思うので、文章と違って音楽のスキ具合は結構気にします。私にとって文章は頭で書いている意識が強く、「理屈」としてまとめている感じです。ですから別にスキが少なくてもそんなには気になりません。私の頭の中の理屈が合わない人もいますので。もちろん、多いに越したことはありませんけど。音楽はハートで旋律を紡いでいるので、文章と違いスキの数は気になります。言ってみれば自分の心が他人に受け入れられるか否かですから。多くの人にスキしてもらえたなら、それはそれで自分の心の有様が他人に一瞬でも受け入れられたことになるんじゃないか、と考えているのです。でも、一番大切なのは、数がどれだけであろうが、わざわざ私のために時間を割いて音楽を聴いてもらって、あまつさえスキをクリックしてもらう、そのことに尽きます。
私の大好きなタモリさん
意味の無いことを楽しんでいる有名人にタモリさんがいます。タモさんはイグアナのマネやインチキ外国語(ハナモゲラ語)を何か意味を見出してやっているわけではありません。ただ単純にそれを楽しんでいるだけです。楽しいから、それがやりたいからやっているだけ。TVで放映されていましたが、赤塚不二夫と2人でイグアナのマネをしているタモさんは確か上半身裸で真剣そのものでしたし、何よりも楽しそうでした。「タモリ倶楽部」はその最たるものですね。あの番組はタモリさんの世界観を楽しめる人間だけが入ることの出来る場所です。だから倶楽部なんです。「お前とタモリさんを一緒にするな」という意見もあるでしょうが、意味の無いことをやるのに、私とタモリさんの間に何か特別な違いがあるでしょうか?私もタモリさん同様、音楽をやることに意味なんて求めてはいません。好きだからやっているんです。意味なんてそんなつまらない物を求めたら、窮屈で面白くありません。意味なんて理論武装したい人にとって都合の良い物であって、意味があるから面白いと言えるものではないでしょう。むしろ意味が無くても面白い物を作った方が良い気がします。ハナモゲラ語を開発した人々(山下洋輔氏ら)は天才だと思います。意味が無くても楽しめる、人をあっと言わせる物を創造したんですから。意味が無いなんてそんなに難しいことを言わないで、何かを味わう時は、素直に心で感じれば良いんじゃないでしょうか。いわゆる童心に帰るってヤツですかね。誰だって子供の時はそうだったと思うんです。無心に何かに感動する。その連続だった気がします。大人になるにつれて、それが恥らいとなり、「理屈」というフィルターを通してしか感動出来なくなる。感動のリミッターは解除したいものですね。
意味があろうが無かろうがとにかく何かをやる!
意味が無いからやらないというのは、私には失敗を恐れる人の言い訳に聞こえます。意味を考えて腰が引けるようでは、人の心を動かすような何かは絶対に出来ないのではないでしょうか。意味なんて決して普遍的な物ではないのです。そんな不安定な物にすがる必要はありません。意味はマウントを取りたい人間や、自分のプライドを満たしたい人間にとっては重要なアイテムかもしれませんが、今まで取り組んだことのないことをやるには障壁でしかありません。どうしても意味を求めたいのであれば、何事かを成してからすればよいのです。その成した何事かに対して自分でしっかりとした意味付けをする。それで十分です。他人がそれにどんな意味を見出すかは他人の問題であって、自分の問題ではありません。他人が意味を持ちだすなら、その意味を気にしない他人を求めたら良いのです。世の中全ての人に受け入れられるということなど存在しません。100人がスキしてくれても、900人は関心が無い。意味や評価を気にせず、自分の行動に興味を示してくれる人々に寄り添っていけば、その中で何らかの結果を残すことは出来ると思います。決して「意味」を恐れてはいけません。「意味」の前に足踏みをしてはなりません。どうしても意味が欲しければ、歩き切った先で意味を探しましょう。
意味があろうが無かろうがとにかく何かをやる!
何かを変えたい、やりたいと思うのであれば、それしかないのです。
おしまい