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私の精神病(統合失調症)発病から回復まで

 私は平成13年、19歳の当時大学に通っていました。通っていたといっても遊んで真面目に学校に行かず、講義をさぼったりしていました。遊んだり学業はそっちのけでバイトに励んでいました。そして平成15年、21歳の時2回生で中退し、家業の手伝いを始めました。そうして病気に侵されていきました。平成19年、母はお客さんのつながりから精神科の診療所の先生を紹介してもらい、診療所に行き私の症状を言いに診てもらっていた様です。処方された液体の薬をもらい私に内緒で私の飲むお茶などに入れていたそうです。

 私は平成18年に発病しました。自分が神だと思い込んでいました。神なので世界一お金持ち、いや宇宙一お金持ち、そんなことを言いながら朝昼晩問わず街を練り歩いていました。髪もポマードを買ってきてリーゼントにして、髭も伸ばしました。自分は前世で阪急ブレーブスで「ドクターK」と言われるほどの選手であったという妄想が始まりました。今世では、ボストン・レッドソックスに入団して契約金が7000万円あるから両親に「銀行の口座に7000万円あるはずだから7000万円取って来い」と言いました。同時に7000万円あるからと思い込み、自分が貯めた60~70万円くらいのお金を一週間位ですべて使い果たしました。その時にレッドソックスのTシャツ、トレーナー、帽子、ゲーム、おもちゃ、ボール、グローブ、フラフープ、阪神タイガースの名前入り小銭入れ、ミッキーのトランク、ドラえもんのギターなどを買いました。処分した物もありますが今でも二度とああいうことにならないぞという気持ちでわざと残してある物(特にレッドソックスの物)もあります。

 レッドソックスの妄想があって、それと同時期位に両親に対しての暴力が始まりました。なぜ7000万円を持って来れられないのか、そして過去の両親に対する恨みが主な私の暴力の理由になっていたようです。レッドソックスの事はもう省きますが、両親に対する恨みは大変なものでした。私は、本家長男なので勉強はできなあかん、良い大学に入って立派な大人になるのが両親の願いだったようですが、私はわざと反抗しました。そんなもの親に押し付けられるくらいなら反抗してやろうと思ったわけではありませんが、とにかく自分の好きな夢を持てない。両親、特に父親の方に勝手に私の将来を決められるようなところがありました。それを私は許せなかったのです。口でそれを言えばよかったのですが、私は父とはあまり話すことがなかったし、私のその時のコミュニケーション能力も低かったのです。

 ある日の夜に思い切り暴れました。家の中を無茶苦茶にしました。両親へも無茶苦茶に暴力を振るいました。私が暴れて110番通報されたら困ると思い電話をさせないようにしました。また、玄関から出られたら困ると思い玄関から出られないように暴力を振るっていました。そうして家で暴れている最中、母が私の隙をみて玄関から裸足のままで飛び出してスーパーにかけこみました。そして、スーパーの電話を借りて「家で息子があばれている」と通報したそうです。間もなくパトカーがやって来て3人のお巡りさんに父と母が状況を説明し、私は警察署に連れていかれました。そして一晩警察署の留置所で過ごしました。その時の話を聞くと、私は一晩中妙な体操をしていたそうです。そのおかげで警察の方も一晩眠れなかったそうです。

 一晩経ち次の朝を迎え精神鑑定をしました。精神鑑定は日に2回あり2人の違った精神保健指定医が鉄柵の向こうで話を聞いてくれました。そして両親の入院させたいという思いもあり措置入院になりました。

 治療を始めて回復し、支援事業所に繋がるまでで私が一番最初にお世話になったのは保健福祉センターでした。それというのも住んでいる区の保健福祉センターの相談員がわざわざ名刺を持って病院まで訪ねてくれたからでした。私は相談員を初めは「怖い人かなぁ」と思いました。というのは私の前に面会していた人に借金取り風な人がいたからでした。相談員がその筋の人ではないかと私は恐れました。

 退院する時、私は主治医から「グループワークには絶対に参加してくださいね。」という助言がありました。言われたとおり私は月4回のグループワークに通い続けました。失礼かもしれませんがこのグループワークが当時の私には大変つまらないものでした。自分自身「なんでこんなつまらない事に参加しているのか。」と思っていました。しかしそのつまらないグループワークが後々私にとって大変重要な意味を持ってきます。グループワークというのは、一週間にあった出来事を話したり、お料理したり、音楽を楽しんだりする場でした。SST(ソーシャルスキルトレーニング(ざっくり言うと生活技能訓練)以下SSTと呼ぶ)というのがその当時の私には特に苦手で、いつも笑ってごまかしていました。とにかく私は先生に言われたのでつまらなかったグループワークに参加し続けました。これが私の人生の転機でした。

 平成20年、作業所に通所するようになったきっかけも、相談員の誘いでした。私は毎日父母と3人で家業を営んでいました。そして、水曜日になると保健福祉センターのグループワークに通っていました。相談員には何度か作業所へ行くお誘いお受けていましたが、その度に私は自信がなかったので断っていました。というのも、アルバイトで苦い経験があり、作業所に行けばまた怒られるのではないかと思ていたからです。ある日とうとう作業所に行く決心がつき作業所と家業をかけもちする日々が始まりました。最初見学にいったときは、皆きびきびと動き、私はついていけるだろうかと思いましたが職員さんが優しくすんなりと中に入っていけました。今までこんな場所があるだろうかと思うほど居心地のいい作業所でした。職員さんとは今でもやり取りをしています。しかし、当事者の間でのやり取りはあまりうまくいったとは言えませんでした。まず私自身が内気だったという事もありますが、家業がある故に作業所以外での当事者間の付き合いが出来なかったのが主な理由でした。作業所での仕事は、平成20年1月から父が亡くなる平成20年12月まで続きました。それ以後は、家業だけしています。また、作業所のレクリエーションには行ける範囲で参加しています。

 私は、発病前から両親にとにかく反発していました。原因とおいうのは何だったかわかりませんが、言うことを聞かなかったです。それが現在では180度変わり、親の言うことをよくきくようになり、ゆっくりとですが親子の会話というものが生まれました。

 今は、保健福祉センターで年に1回クリスマスパーティーに参加したり、最近はなくなりましたが作業所に行ったりしています。また、それぞれで相談にのってもらったりしています。そして月に1回作業所から送られてくる機関誌に職員さんが一筆添えてくれるので、そのお返事に作業所に連絡したりしています。母は保健福祉センターの家族教室に参加してくれています。

 私は入院の時から現在までで全く別の人間に生まれ変わったかのようでした。退院からすぐに家業に精を出していた訳ですが、最初は客との会話も満足にできない状態でした。それが、時間が経つにつれお客さんの反応が変わってきました。「兄ちゃん最近明るくなってきたなぁ。」とか「しっかりしてきたなぁ。」とかお客さんから褒められることが多くなってきました。これはひとえに退院から一歩ずつゆっくりとスモールステップアップしていった結果が出たのだと思います。グループワークの事にしても先ほど「つまらなかった。」と言いましたが続けていくことによりスモールステップアップし私は着実に成長しました。SSTが苦手で仕方なかったのですがグループワークで練習のSSTを受けたことによって、私は家業で実際に仕事をすることにより実践のSSTがすんなりできました。今ではお客さんによりますが冗談まで私の口から出るようになりました。今思えばグループワークに通っていた時に、もっと真面目にSSTに取り組んでおけば良かったと後悔しています。物事には時期というものがあります。その時期を逃すと次の時期はそうそうやってきません。例えば私の場合、小中高大学が勉強する時期です。その時を逃す。つまり勉強しないでいると次に勉強しようと思ってももうその時には別のやることが多すぎて勉強できなかったりします。皆さんも今を大事にその時出来るベストを尽くしてください。

 私はグループワークを経て、作業所を経て、家業を営んでいます。要は、スモールステップアップなのです。これが出来たからこれをしようという具合に出来ていくと次の目標が見えてくるものなのです。私の今の目標は、常に昼の12時には起きることです。私は最初からスモールステップアップに気付いた訳ではありません。母が最初に、この病気がスモールステップアップで良くなることに気が付きました。それを私が実行していきました。最初は目の前が真っ暗でした。病気にあろうことか精神病になったことがショックで仕方がありませんでした、それまでの私は、障がいを偏見的な目で見ていましたから自分がそうなってしまったということに対して、世間に目を合わせられないと思い自殺未遂までしました。しかし、そこにもしっかりとした道があることを行政の福祉や母から学びました。福祉や母だけではありません。これまで自分自身の話しかしてきませんでしたが、父に大変世話になりました。父は私に普通の人間になって欲しかっただけだった。また親戚や、保健福祉センターの相談員を始め、警察官の皆さん、病院の方々、支援事業所の皆さん、当事者の方々等色々な人にお世話になりやっとここまで来れました。まだまだ未熟ではありますが、皆さまのおかげで色々な可能性が見えてきました。どれだけ感謝してもしつくせません。

 最後に私からのお願いです。障がいの当事者を偏見なしで見て欲しいということです。知的、身体、精神とその他色々ありますがその人はそういう人です。そういう個性をもっている人です。性格と一緒です。明るい人もいる暗い人もいる真面目やそうでない人、社交的な人そういうのが苦手な人、良い人悪い人など言い尽くせませんが、それと同じです。障がいも一つの個性なのです。皆さんには、色々な経験を積んでいただき、一人では生きていくことが難しい障がいをもった当事者の手助けをしていただきたいのです。人間は一人では生きていけません。殊障がいの当事者は皆さんより普通に生きていくことが難しいのです。どうか皆さまの手助けをお願いします。そして障がいをもつ当事者が人間として尊厳を持てるような世の中、または当事者の努力によってそうなることを望みます。

あとがき
この文章はオリジナルの文章を少々添削いたしましたが当時の文とほぼ相違ないです。ただまだ至らない文章だと思います。それと、この文章は私が執筆した当時のもので現在の私の状況とは異なります。現在は職が変わり公務員として仕事に励み嫁をもらい幸せな家庭を築いております。また、この文章は保健師の卵さんたち用に書いたものですのでそれはそれと思ってお読みくださいませ。では皆さんの幸運を祈ります。またここでお会いする日まで(^_-)-☆

夢(む)~

 


 

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