やはり「ありのままを受け止める」
見苦しい投稿はしたくないけどうまくまとめている余裕もない。
今感じていることをとにかく出しておく。
喫緊の課題。それはやはり長子の小学校の問題。
絵描きは小学二年生。小学校に入学するまでは、自然の中で五感を使ってたくさん遊ばせてくれる、子どもの発達に寄り添った保育をしてくれる園に毎日草履を履いて通っていた。
絵描きが卒園するとき、まだ先生は一才で授乳していたと思う。睡眠不足と疲労で記憶が全然ない。
睡眠不足だと思考も深くならない。
小学校への漠然とした不安、不審は感じていた。どうにかしなければ、と感じつつ、何もできないまま絵描きは近所の公立小学校に入学した。
当時、小学校への漠然とした疑問を同じ保育園の卒園生のお母さん方に投げかけてみたが、多くが「小学校でうまくやる方法」のようなことを教えてくれ、「絵描きなら大丈夫」と励ましてくれた。皆、いわゆる自然保育園の保育理念に賛同して通わせていた人たちだったから、現状の学校に不満や疑問を感じつつ、でもそれをうまく受け入れていたし、仕方がないと諦めてもいた。
「地域のつながりの中で子どもは育つから」「友だちと楽しく遊べたら」「給食でいろんなものを食べさせてくれる」「なんだかんだ楽しくやってる」
そんな言葉をもらったのを覚えている。
夫は小学校時代、友だちとずっとふざけていて怒られて、楽しかった思い出しかない、と言っていた。
私は特殊な家庭環境だったので(ここでは割愛するが後で書こうと思う)、小学校に対する自分の記憶や感じ方は絵描きの小学校を考える上で全く参考にならなかった。
小学校への漠然とした疑問を感じつつ夫や保育園の先輩方の助言を受け、私は自分の感覚を突き通すことは出来なかった。絵描き本人も小学校へ行くことを楽しみにしていた様子は覚えている。
特に子どもは(大人だって)健全な精神状態であれば、自分の「成長」を感じたり、次のステージに進むとき、ワクワクし漠然とした希望を抱く。
絵描きがすくすくと成長していることを実感して嬉しく思ったが、その進む先は本当に絵描きの成長に合っているのか。絵描きがイキイキと過ごせる環境なのか。重すぎるランドセル、内容が幼稚に感じた道徳の教科書、何より子どもにとってはメリットよりデメリットが上回るマスクの着用。違和感だらけのなか、入学した。
入学してからしばらく表情が硬かった絵描きだったが少し慣れてくると、新しい事、新しい生活が楽しいと言っていた。
学校の内実は全く分からなかったが、学校の問題云々は絵描きの課題であって、私がむやみに介入していくべきではない。そう自分に言い聞かせて、見守ったが、これでいいのかという迷いはずっとあった。
二年生になって通学路が同じ近所の女の子とも仲良くなった。そこで子ども同士のトラブルもあった。トラブルの詳細は割愛するが、絵描きが近所の子の悪意にさらされていたことがわかり、保護者が丁寧に謝罪してきてくれた。その後子どもたちの関係は修復されたか定かでないが、絵描きは飄々と登校している。ただ、前にも書いたとおとり、帰ってくるとイライラしていることが多い。
この地域の多くの小学生が放課後毎日のように塾や習い事に通っていることを、このときのトラブルで知った。放課後子ども同士で遊ぶこともままならないほど、今の子どもたちは忙しい。習い事や塾は保護者が子どもの将来を考えて通わせていて、そこに子ども本人の「やりたい!やりたくない!」は置き去りにされているように感じた。
近所のお母さん方は口癖のように「周りをみて、そんなこと他の子やってる?」「ほら、あの子もそうしているんだから、こうしなよ」例えば上着ひとつ着るのも本人の寒い・暑いの感覚は、置き去りにされていた。周りと比べてばかりだった。
以前、川崎市で夢パークを主催している西野博之氏の講演会で、学校でのイジメの現状を聞いたことがある。小学校で最もイジメが多いのは二年生なのだと。一年生の時に自分より弱い存在を探し(認識し)、二年生になるとその自分より弱いと認識した存在をいじめだす。聞いたときはまるで実感がなかったが、近所の子どもたちの置かれた環境を知り、西野さんが言っていたことを実感を伴って理解した。
今の特に都市部の子どもたちは他者との競争の中に置かれている。将来よりよい教育機関、仕事に就くための熾烈な競争の中に、こんな幼い時から放り込まれている。
「こうした方がいい。」「あんな風になっちゃだめ」
子どものありのままの姿は置いてけぼり。
「あんな風になったら親から認めてもらえない。」「誰かよりうまく出来ないといけない」
そんな心境でいるのだと感じた。そりゃ、自分より弱そうな、何も反撃してこなそうな子どもを見つけて、いじわるしたくなるよな、と思った。
小学校に限らない。保育園でだって、幼稚園でだって、大人の世界でだって、そして、家庭でだって「弱者」(と認識されたひと)への暴言、暴力はある。
でもそんなことを近所のお母さん方には話せなかった。そのお母さんは子どもによかれと思っているし、他者の問題には介入できない。
でもその影響はよくも悪くも受けてしまう。
自分の子どもの環境さえ良ければいいとは決して思っていない。全部地続きなのはわかっているし、すべての子どもの(自分を含めた大人も)心が自由になること、幸せを感じられることを願っているし、自分に何ができるだろうと考えている。
でも特に小学校低学年の絵描きに確固たる自分なんてまだない。そんななか、このまま「他者との競争」の渦中に身を置いていいものか。自分の「ありのまま」をなかなか許されない集団の中にいていいのか。
自分の「ありのまま」を受け入れ、自分の気持ちや感じた事、考えを偽ることがなくなった時、本当に自分のやりたいこと、没頭できること、夢中になれること、が明確になる、気がする。
そして、その心の中から湧いてくる、たとえそれがどんな些細なことでも、本当の「やりたい」という気持ちが、きっと生きていくうえで大きな指針になる。
自分のありのままを認めれば、他者のありのままも受け止められる。自然と他者も尊敬できる。
そういう心地のよい空間、社会なら、この空間、社会をよりよくしたい、という気持ちだって自然と芽生えてくるはずだ。
今の絵描きの学校環境、それだけでなくきっとこの社会において、「人はありのままで存在していい」という意識の欠如が、すべての問題の根幹にあると感じた。
私だって自分のありのままを受け止められていない。
でも、ずっと子どもの育ちに(大人の生き方も)ついて考えてきて、今やっと、確固たるものが腹に落ちた気がする。
子どもの育ちを通して「人権」というのを初めて自分なりに理解した気がする。
子どもの「ありのまま」を保証して、できれば自然の中や多様な人の中で様々な体験を通して自分の「やりたい」をみつけられる、そんな場所を探すことに決めた。
絵描きの学校問題をどうにか「しなければ」とずっと思っていた。
今はどうにか「したい」。場所を探「したい」。
同じようで、心の中は全然違う。不思議と気力が湧いてくる。気がする。
何より、ちょっと楽しみである。どんな場所があるんだろう。
多分移住も転職もセットだ。
でもその先に確固たるものがある。気がする。