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そのベンチで、いつも帰りを待っていた

年度末。3月ももうすぐ終わりを迎える。もう桜も咲いてきた。春風が吹き抜けて、あっという間に去っていくのだろうか。東京にやってきてからも、この季節になると思い出すのは、自分が住んでいた街の景色だったりする。まだうっすらと雪が積もるアスファルト。小道に入ると溶けた雪が白濁としていて、柔らかく冷たい。どんなに厚手の靴下を履こうとブーツを履こうと、地面から感じる冷たさは、まだこの季節に残っている。そんな景色や温度をいつも思い出す。

私とゆりちゃんが育った北海道は、寒い地方で雪が積もる街。それでも、北海道内の他の都市に比べると我々の街は雪が少ないほうだった。交通機関はもっぱら自家用車。そのため学生時代は、自転車、徒歩、バス。この3択くらいだったのよねぇ。地下鉄とか電車とか、そういう類のものがなかったの。路面電車はあったけど、わたしの生活範囲にはほとんど及んでいなかった。だから冬はもっぱら徒歩、そしてバス。だから電車への思い出はほとんどない。

その日は雪の降る日で。地下鉄のホームで一人、恋人が来るのを待っていた。20歳を超えて住んでいたその街には地下鉄が走っていた。東西南北をつなぐものと、それをもう一本重ねて走る3本の線からなる地下鉄。私はその中でも緑色の路線沿いに住んでいた。短大を卒業してから選んだ駅。当時の恋人におすすめされてその駅を選んだ。実は高校卒業以来、偶然にもゆりちゃんと出会ったのもこの駅なのだ。ゆりちゃんもその駅の近くに住んでいたので運命や偶然をつなぐその駅は、どう考えても私の20代前半を全部持っていってしまうくらいに、思い出が詰まっている。

地下鉄のホームから、地上に出ると、すぐにバス乗り場があった。終電で家にやってくるであろう彼を待つときは、そのバス停のベンチで待っていた。「そこで待っててね」と言われることが多かったからなんだけど。バスが終わっても、少しだけ待合室の電気は付いていて、終電が終わるその時まで蛍光灯の灯だけが、古びたベージュのタイルの床を照らしていた。

ベンチに腰をかける。ガラスの向こうにはアスファルトの歩道、バス停がある。通りに面しているからか、遅い時間でも車がビュンビュン通っていた。地下鉄を乗り継ぎ家に来るまでの彼を待つときは、日ごとにテンションが違う。どうしようもない恋愛だったけど、終電を心待ちにする日もあったし、喧嘩をしてるのにやってくる彼を待つ日もあった。バス停のベンチで待つ。来るはずの時間に来ない人を待つ。そういう人だった、そういう恋人だった。今思えばどうしてそんなに一生懸命にできたの?と思うんだけど、彼か来るのが待ちきれなくて、地上のバス停の待合室のベンチから地下鉄の乗り場付近まで降りて、地下鉄の改札近くのベンチで待つことも多くなった。

木でできたベンチ。床は相変わらず薄汚れたベージュのタイル。茶色とベージュが不規則に並べられたその床を見つめながら、来ない人間を待つのはなんだかちょっとだけ寂しくて切なくて、マフラーをギュッと締め直すので精一杯だった。鳴らない携帯を持って、メールが来るのを待ちながら。まだパカパカする携帯だった。光る光らないを確認しながら、ポケットにしまったり、開いてみたりしながらベンチに座っていた。何度も床を見つめる。

しばらくすると、目の前を通り過ぎる足の数が増える。改札に人が集まっては出ていく。地下鉄が到着した合図だった。その中から彼を探す。

私、実はこれは昔っからの癖というか得意技なんだけれど、待ち合わせの時はいつだってすぐに相手を見つけることができる。できるんだけど、気づかないふりをしてしまう。これは年を重ねた今でもそうで、待ち合わせの相手を早く見つけられるその能力がとても恥ずかしいから、ギリギリまで気がついていないフリをする。本当はどんな人混みに紛れていても、遠くからでもわかるんだよな、でも恥ずかしくってねぇ。だから当時もそうしていた。狭い改札に向かってくる彼に気がつかないフリをしながらマフラーに首を埋めて、恥ずかしい顔がバレないようにする。

付き合いたての頃はそれが楽しくて面白くてよかったんだけど、時が経つにつれ、彼がやってくることにも慣れてしまって、だんだんとベンチで待つこともなくなった。家にさっさと帰って、何時に帰ってきても気にならなくなっていた。幼い恋心だった。あの頃は可愛かったなぁ、わたし。

未だに乗り物の近くにベンチを見つけると、どうしてもそんなことをぼんやりと思い出してしまう。電車やバス停、地下鉄に設けられたベンチは、もちろんそこで電車を待ったり、一呼吸おいたり、休んだり。利用のされ方は様々なはずで、それでいいんだけど。

誰かを待つということをした人がいたかもしれないなぁって思うと切なくなったり苦しくなったりする。時間に遅れてくるかもなぁとか、今日は来ないかもしれないなぁ、なんてちょっぴり不安に思ったかもしれない人が座ってたかも……と思うとどうしても胸がギュッとなるのだ。こういう胸がギュッとなる現象に名前をつけたいな。どこかで名前を見つけよう。

今となってはそういうことで不安になることは無くなったけれど、だけどあの時のこの気持ちは、手に取るようにわかる。わかる、わかるよあの頃の自分よ!誰かを待つ時に切ないって思うのはもうやめてしまったもんね。ハートが疲れるからなのかわからないけど、でもその分何かを期待していたから余計にギュッとなってたんだよね。そういう気持ちになる時のハートをそっとハグしてあげたい気持ちだ。

春一番が吹き抜けるような3月末。時世的に、本当に嫌になることも多い。それでも春がきたよ、という風に吹かれて気持ちがブワァっとはためく感覚を、オトナになっても忘れたくない。どんなにおばあちゃんになっても、そういう気持ちとか、ほっとする瞬間気温とか、青青しい匂いとか、そういうことは絶対に忘れたくないし、気付いていたいなぁ、と思う。

次回の記事は4月8日(水)です。

次回は、相方ゆりちゃんとの不可思議な会話について、書こうと思います。


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