北園克衛に関するネット上の言説がだいたい間違っているので正しておく
そもそも文学作品など好きに読んで好きに楽しめばいいと思っているので、普段は解釈に踏み込まず書誌的なことにしか言及しないことにしている。しかし北園克衛に関する一般的な言説 (特にネット上のそれ) がかなりの確率で誤っているので、さすがに耐えられなくなってきてこれを書いておくことにした。
「の」の字下げは視覚詩でもタイポグラフィの詩でもない
意識のなかの美学やイメージのコンポジションを言語という不完全な道具を経由して観念上にできるだけ効果的に再現する方法をひたすら突き詰め洗練していった結果として最終的にあのフォルムにたどり着いただけであって、決して見た目をスッキリさせるためとか視覚的な効果を狙って作られたものではない。イメージのコンポジションなので、配置するオブジェ (ボキャブラリ) の選択も非常に慎重に計算されている。
(以上でこのエントリで言いたいことは全部言い切った、以下残りはその補足である)
世の言説の9割はだいたいここの解釈が間違っている。例えばWikipediaには「ことばの意味よりも文字のかたちを重要視した」「連が図形をかたちづくる詩」「形状やパターンに独特の視線を注いだ」などの記載がある。典型的な無理解だ。もしもどこかでこのように「の」の字下げを視覚詩として扱っている文脈を見かけたら、その文章はあまり信用しない方がよい。
ボキャブラリの選択に美学が表れるので、表面的なフォルムだけを真似してもたいてい失敗する。「もしも北園克衛が焼きそばの作り方を書いたら」的な作品を見せられても実にお寒い限りである。
そもそも北園にタイポグラフィの視覚詩はない
コンクリートポエトリーの文脈でしばしば名前が挙がるために誤解されているようだが、北園は基本的にタイポグラフィの視覚詩をやったことがない (※図形説は除外、後述) 。北園の視覚詩はあくまで plastic poem と呼ばれている写真作品やデッサン作品である。言葉があまりに不完全だからいっそ言葉をやめちゃおうよ、というやつである。
例えば新国誠一が「::::雨::::」と書いたらそれは「:」という文字や「雨」という文字でなければ成立しないが、北園克衛はそんな言葉の表面的な意味や、まして活字の形に縛られることなど、つまらないしダサいしカッコ悪いと思っているので絶対にやらない。写真作品で度々使われている欧文の紙片は単にテクスチャとして使われているだけで、書かれている文字の内容や意味は一切関係ない。『VOU』の表紙に代表される装丁の仕事はあくまでエディトリアルデザインであって詩作品として製作されたものではない。「の」の字下げが視覚詩でないことは前述の通り。
タイポグラフィの作品としてたびたび取り上げられる図形説は、確かにタイポグラフィだが、同時に最初期に可能性を見切って真っ先に捨てた表現方法である。1920年代後半にはダダ~アナーキズム系の若者たちの間で活版印刷の常識を壊す試みとしてタイポグラフィの作品が大流行した。戦後のコンクリートポエトリーの話に図形説を持ち込んでいる言説を度々見かけるが、活版と写植とでは時代も文脈も全く関係ないので比較すること自体に意味がない。
おわりに
初めて北園克衛に触れた人が、なんだか見た目スッキリしてて変わってて面白い!と思ったとしても、それはまったく問題ないどころかたぶん圧倒的に正しい。それはそういうイメージのコンポジションが観念上に再現された結果であって、まさに意図通りの効果を得たということだ。