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追悼 八代亜紀さん


3歳、ボクの初ステージ

夜、父から家に電話がかかってきた。
「『スナックみゆき』で飲んでるから迎えに来い!」
という電話だった。
もう寝ようとしていた時間だったが、母は、まだ小さかったボクを置いていくわけにもいかず、ぶつぶつ文句を言いながらパジャマから外出着に着替えさせて、ボクを車に乗せる。
「スナックみゆき」に着くと、母は、車から降りない。母はスナックの雰囲気が大嫌いなのだ。
「お父さん迎えに行っておいで!」
ボクは渋々、車を降りて、重いドアを開ける。

ドアを開けると爆音で音楽が聞こえた。
見ると上機嫌の父が、知らない曲をカラオケで歌っていた。
後で知ったのだが、牧村三枝子「みちづれ」であった。というか、父はカラオケで、牧村三枝子の「みちづれ」しか歌えないのである。

酔っぱらった知らないおじさんが、
「カネさん!息子が来たで!!」
と、笑いながら叫ぶ!
「きめたっ!きめたっ!おまえ~と、みちづれに~」
こぶしを振り上げながら、父がマイクを置いて席に戻ってくる。
店のママである、派手なおばちゃんが、拍手喝采をしている。
「おう!おめぇも何か歌え!!」
上機嫌の父が無茶振りをしてきた。
もちろん、当時は通信カラオケではない。
レーザーディスク(LD)である。テレビ画面で歌詞が見れるようになり、この後、カラオケが爆発的に流行していくのである。
たしか、まだオートチェンジャーのカラオケ装置も無かったと思う。
派手なおばちゃんが、LPレコードサイズのレーザーディスクを何枚か見せてくれた。
レーザーディスクのジャケットには、何枚かテレビで見覚えのある顔があったが、その中でもボクは瞬時に、
「あ、雨雨ふれふれの女の人だ!コレっ!!」
と一番見覚えのあるジャケットを指さした。

八代亜紀「雨の慕情」作詞:阿久悠 作曲:浜圭介 1980年

八代亜紀さんの「雨の慕情」であった。

「おお!渋いの歌うなぁ」
知らないおじさんが、笑っていた。

派手なおばちゃんも笑いながらレーザーディスクをセットした。

ボクは、ステージに立って、マイクを握る。
派手なおばちゃんが、マイクのスイッチをオンにしてくれた。

ぴろりろん・・・ぴろりろん・・・
ちゃんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃんちゃん
ちゃんちゃらん・・・

物悲しいイントロが始まる。

「こころがわすれたあのひとも~ぉぉぉ、ひざーがおもさをおぼえてる・・・」

歌詞の意味は分からなかったが、テレビで聞いておぼえた歌を必死に歌った。
そしてもちろん、サビの部分、

「あめ あめ ふれふれ も~っとふれ~」
の部分は、掌を上に向けて、振り付きで歌った。

派手なおばさんと、知らないおばさんは、拍手喝采で笑っていた。

2番のサビが始まる頃には、父親も、派手なおばちゃんも、知らないおじさんも、みんな大合唱で歌った。

「あめ あめ ふれふれ も~っとふれ~!!
わたしのいいひと つれてこい~!!」

八代亜紀さんの「雨の慕情」、
ムーニーカネトシ、3歳の、初ステージであった。

父と八代亜紀さん

父は、カラオケは唄えなかったが、テレビで何度も「舟唄」を聴いていた。

父が亡くなる直前まで聴いていた曲。
ホント聴いている人の心に染み入る名曲!!

我が家が一家で車で出かける時には、買い替えた自慢のマイカー「マツダファミリア」に装備されていた、最新のカセットプレーヤーで、石原裕次郎と八代亜紀さんのデュエット、

「夜のめぐり逢い」
「別れの夜明け」
「東京ナイトクラブ」
そして、「銀座の恋の物語」
を、繰り返し、テープが伸びて擦り切れるまで繰り返し聞いた。

・・・しかし、やがてボクも思春期を迎え、当時は、中学高校生の少し贅沢な娯楽といえば、カラオケの全盛期、ボクも、八代亜紀さんや中島みゆきさんばかり歌っているわけにはいかない。
同年代の友人の中では、演歌を歌うと白けさせたし、そもそも悲しい旋律の曲が多い。

流行りの歌などを聴いて、カラオケで歌い始めて、さすがに八代亜紀さんの曲から少し遠のいた時代もあった。

しかし、2007年に父の膵臓癌が発覚、みるみる弱っていく父を前に、病室の中でせめて元気づける曲を、とかけたのは、昔を思い出すように、再び八代亜紀さんの曲だった。

家族で、小さな声で、八代亜紀さんの曲を口ずさみながら、父の病状に対し、何もできない自分の無力さを知り、父に隠れて泣いた。

父が亡くなり、葬儀でピアノ生演奏の「舟唄」「雨の慕情」を弾いてもらった。
父が元気で、車で遠出したり、凍結した道や、濃霧で数メートルしか視界が無いような、危険な道をドライブしたこと、バッテリーが上がってみんなで車を押したこと、親戚の家で飲んだビールが元で、酒気帯び運転で父が捕まったこと、思い出の中には、いつも八代亜紀さんの曲があった。
おもいっきり、泣いた。

小西康陽さんと八代亜紀さん

父の死からしばらくして、ボクが大学から家を出て、首都圏に移り住む大きな要因となった、憧れの小西康陽さん。
その小西康陽さんがプロデュースして、2012年「夜のアルバム」がリリースされた!

小西康陽プロデュース、八代亜紀「夜のアルバム」

八代亜紀さんの新たなアプローチ、彼女のハスキーボイスと歌唱力は、JAZZナンバーでもいかんなく発揮されていた。
大好きな小西さんのJAZZナンバーのアレンジも絶妙で、静かな夜にお酒を傾けながら一人聴くのに、うってつけのアルバムである!

八代亜紀さんのコンサートへ!初のナマ八代亜紀さん!!

もう一度、八代亜紀さんに戻ろう!
そして、是非今のうちに、ナマで八代亜紀さんのコンサートで歌声が聴きたい!

そう思ったボクは、2017年、神奈川県民ホールで開催された八代亜紀さんコンサートのチケットを取った。

前半は、きらびやかなドレスを着ての、演歌のスタンダードナンバー、後半は、シックな黒いドレスで、JAZZナンバーを歌う、二度美味しいコンサートだった。

本当にステージに立つことが、お客さんと出会うことが、嬉しくてたまらない、そんな八代亜紀さんの溢れんばかりのステキな笑顔で登場し、馴染みの曲を熱唱してくれた。
歌の熱唱と対照的に、歌の間に挟まるMCは、とてもかわいらしくやさしくて、まるで八代亜紀さんが女の子「アキちゃん」に戻ったような、親しみを感じさせられる声と表情が、本当に忘れられない。
素晴らしいコンサートだった。

「音楽の帰港地」八代亜紀さん

その後、ボクは結婚をしたり、子どもが産まれて育ったり、仕事を転職したり、いろいろと人生の節目があったが、そんな時に、ふと立ち戻って聞きたくなる、八代亜紀さんの歌声。

まさに、ボクにとって、「音楽の帰港地」であった。
いつでも八代亜紀さんは、笑顔で待ってくれているような気がしていた。

仕事柄、NHKの歌番組などで、元気なお姿を拝見していたし、ボクの母親よりも若かったので、しばらくは安泰かな、と、安心していた。
機会があれば、もう一度、コンサートに行って、ナマの歌声が聴きたいと思っていたが、コロナも明け、やっとさまざまなコンサート活動が復活してきた2023年9月、ご病気の静養のため、活動休止。
きっと回復されて、また歌声が聴けると信じていましたが、叶いませんでした。

「もう一度逢いたい」です。

八代亜紀さんはいなくなっても、音楽はずっとずっと聴き続けます!

すばらしい歌を、素晴らしい思い出を、昭和という時代を、本当に、本当に、ありがとうございました!!

最後に、友人から教えていただいた、八代亜紀さんのステキなインタビュー記事を貼らせていただきます。

ありがとうございました。


ムーニーカネトシは、写真を撮っています!
日々考えたことを元にして、「ムーニー劇場」という作品を制作しておりますので、ご興味ございましたらこちらをご覧ください!

https://moonybonji.jp


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