見出し画像

「ベニスに死す」1971年ルキノ・ビスコンティ監督

友人の細見さんに薦められて、トーマス・マン原作、ルキノ・ビスコンティ監督の映画「ベニスに死す」を観た。

以前にnoteに書いた通り、石坂洋次郎原作、中平康監督「あいつと私」の次に、この映画を観たのだ。
一見、「芸術映画」と「娯楽映画」、ものすごいギャップがあるように感じるが、何かその2つの映画に、通奏低音として、「ロマンティック」「ロマン主義」なものが流れているのを感じるのは、ボクだけなのだろうか?

原作は、学生時代にドイツ文学の授業で、高橋義孝訳の新潮文庫版を読んだつもりであったが、頭の中からは、「美少年」の話以外、正直、すっかり抜け落ちていた。
この新型コロナ禍において、ビスコンティの映画を観て、「伝染病」に関する作品として、ネタバレも含めて、深読みした部分を書かせていただく。

眠気を誘うシーンが、ドキドキに変わっていく

学生の頃、東京都内のミニシアターに通ったり、映画サークルで友人の影響を受けたりして、いわゆる「芸術映画」というものを見まくっていた時期がある。
しかし、今回改めて、この「ベニスに死す」を観て思ったのは、この映画は、若いころではなく、ある程度年齢を重ねて観るからこそ、その魅力が判る映画であるな、と。
もし若いころ観たら、単純に美少年への同性愛と中年男のストーキングを描いた映画(まぁ、描かれていることは、それで間違いないんだけれど)それだけで終わっていただろうな。

映画は、まったりと、ベニスに到着する船の光景から始まる。
始まって十数分間、情景と、主人公の中年オヤジ、アッシェンバッハの不安で神経質そうな、顔色の悪い表情が映るだけで、セリフは全く無い。

正直なところ、観始めたのが夜だったこともあり、
最初は、「うわっ!これは途中で寝るなぁ!」と思った。

船が到着し、ようやく物語が動き出すかと思いきや、下船に際して、下品な酔っ払いが絡んできたり、乗り込んだタクシー代わりのゴンドラ船の船乗りと会話がかみ合わなかったり・・・

美少年タージオを早く観たい!!と思って観ていると、その一つ一つのもどかしさが鬱陶しく、イライラしてくる!

中年おじさんを見飽きたところで、美少年タージオの登場!
いやぁ、しかしよく見つけましたね!
美少年俳優ビョルン・アンドレセン。
ビスコンティ監督が、自らヨーロッパ中探して見つけたらしいですが、執念ですね!
美少年であるだけではなく、海岸で、友人と砂まみれになって遊んだり、母や妹を相手に、いたずらをするあどけなさを見せられるうちに、知らず知らず、映画に引き込まれていく。
画面が華やかになるのだ。

後々、最初のもどかしさも、ドイツ人アッシェンバッハとベニスの心の距離感、人物対比という形で意味を持ってくることになる。
こうやって、映画を構成するすべての要素に、テーマを語るエッセンスを込めて、深読みさせる。
ビスコンティが、全て計算ずくで映画を撮っていたとしたら、やはり天才なのか、狂人なのか。。。

ボクとドイツ文学との出会い

ところで、ボクと「ドイツ文学」との出会いは、中学生のころに読んだ、ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」である。
親に勧められて読んだのだが、今考えると、親はボクにとんでもないものを薦めてくれたわけで(笑)、ボクは見事に、ドイツ田舎町の優等生ハンスが、寄宿制神学校に進学して自由奔放な美少年ハイルナーと出会ってしまうストーリーを自分と重ね合わせてしまった。
ハンスとハイルナーが唇を重ねる瞬間を、ボクは繰り返し読み、ドキドキしっぱなしだったのである。
まだ、「女の子との恋愛」というものを経験したことが無かったボクは、見事に「車輪の下」の少年愛の美しさにハマってしまい、ボクは当時親友だった、美しく中性的な少年に・・・(以下自粛)

ドイツ文学と、そんな衝撃的な出会いをしたボクだったのだが、その後の成長と共に、さらに人生をこじらせるドイツ文学とのかかわりあいをしてしまった。
ボクがちょうど異性を意識し始め、「初恋」とでも言うべき体験をしたころ、ボクは、こともあろうにゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読んでしまうのである!!

若きウェルテルの、人妻シャルロッテに対する叶わぬ恋。狂おしい書簡に溢れる言葉と、たまに見せる、シャルロッテの思わせぶりな、慈しみとも取れる優しさ。
恋焦がれたウェルテルは、最後にはシャルロッテの手から贈られてきた銃により、自殺してしまう。。。

嗚呼、これが恋、鯉、濃い、恋なのね!!!
・・・と、信じてしまったボクは、その後の恋愛をとことん!こじらせてしまった。。。
もしかしたら、いまでもその病気は癒えていないのかもしれないくらいに。

ゲーテ、トーマス・マンから、シャミッソー、ホフマン、ヘルマン・ヘッセに至るまで、ドイツロマン主義文学の大筋を、非常に単純化して申し上げると、「主人公は無限の憧憬を追い求めるけれども、それが手に入らなくて最後は死ぬ」というものである。

「時よ止まれ!お前は美しい!!」
ゲーテの「ファウスト」の中で、主人公が悪魔メフィストフェレスとの契約を交わし、この世のあらゆる快楽と悲哀を経験した後、最後に叫んでしまう言葉であるが、映画「ベニスに死す」のラストシーン、輝く遠くの海の中にいる美少年タージオに手を伸ばす、醜く年老いたアッシェンバッハは、何も言わないものの、まさに「時よ止まれ!お前は美しい!!」という声が聞こえてきそうなシーンである。
象徴的なことに、逆光のタージオのシルエットの傍らには、砂浜に記念撮影用として置かれた、三脚のついた、大判カメラが映っているんだよね。
その瞬間の情景を止めようか、と言わんばかりに。

「美しさ」と「若さ」そして、「家族」への憧憬

主人公アッシェンバッハが、タージオの中に見た憧れは何だったのか?
今観ると、単純に「美少年への同性愛」だけではないことは明らかだ。

この映画には、丁寧でまったりしたシーンの構成をぶった切るように、かなり突発的に、アッシェンバッハの過去の回想シーンが展開する。
その1つのエピソードで、ビスコンティ監督は、ご丁寧に、老いたアッシェンバッハには、SEXの能力さえないことまで描いているのだ。
タージオがホテルのロビーでたどたどしく弾く、「エリーゼのために」のピアノの音は、アッシェンバッハの過去の娼婦との苦い思い出につながる。
娼婦とのことを終え、枕元にお金を置くアッシェンバッハ。何か名残惜しそうに手を握る娼婦。
それを振り切って、部屋を出て、頭を抱えるアッシェンバッハ。
アッシェンバッハは、何を悩んでいるのか?何があったのか?
最初は判らなかったけどね笑。
あ、そっか、勃起不全か何らかの原因で、できなかったんだ!!と気付いた。

アッシェンバッハは、妄想の中で、タージオの髪をなでるが、結局妄想の中だけで、最後まで、タージオに触れることさえできない。
決して肉体的な「愛」「官能」「肉体的な愛」=SEXを求めているのではない。

もう一つ、アッシェンバッハの過去の回想として、娘を持つ父親となったボクとしては、最愛の娘を亡くしてしまった部分に感情移入してしまった。
幸いながら、アッシェンバッハにも妻はいる。
自分が尽くしてきた、芸術、作曲活動に対して、評価が得られなくなってしまっても、妻だけは優しく受け止めてくれた。
しかし、血のつながった家族はいない。

対して、タージオは、ちょうど思春期を迎えて、もうすぐ巣立ちをする直前ではあるが、映画の中では、いつも母とたくさんの妹たち、家族と共にいるのだ。
砂で汚れたときにも、すぐにタオルで拭いてくれる家族がいる。

アッシェンバッハが、タージオの中に見た憧憬には、「美しさ」と「若さ」に加えて、「家族」への憧憬もあったのではないだろうか?
子供の頃、家族と共にいた時の、あの温かさへの憧憬。
アッシェンバッハも、やがて、本来は、その温かな家族、家庭を築くつもりであったのに、そこに襲ってきた娘の死。
妻は若くとも、老いたアッシェンバッハには、もう家族を作る能力さえ残っていなかったのである。

「伝染病」が人間をむき出しにする

ボクはまだ、イタリア、ベニスに行ったことが無い。
辛くもアッシェンバッハがタージオをストーキングするベニスの街は、伝染病に侵され、暗く汚れていく。
ボクは映画を観るまで、いつかイタリア、ベニスの街に行ってみたいと考えていた。
しかし、ビスコンティのベニスの街の描き方は強烈だ。
美しいタージオと対照的に、誇張気味に荒廃して描かれるベニスの街を観ていると、実際にベニスの街はこんなものなのではないかと思われてくる。
少しイタリアに行ってみたい気持ちが薄れてしまったくらいだ。
(いや、もちろん、現代のイタリアは、物語とは異なっているし、新型コロナで戦っているイタリアを応援しているのだが)

そんな伝染病に侵された街を、ひどい臭いのする、白い消毒液を撒いて消毒するシーン。
真っ白に塗りたくって、覆い隠そうとするのは、悲惨というか、滑稽でさえある。

いやいや、しかし、よく考えてみると、近代化し、清潔に見える現代の街だって、実際は表面を取り繕っているだけなのではないだろうか?

カミュの「ペスト」を出すまでもなく、不条理かつ人々に平等に襲ってくる自然災害や「伝染病」によって、普段は取り繕っている人間の「情念」や「煩悩」といったものがむき出しになってくるのではないだろうか?

「伝染病のことを隠蔽しなければ観光業が成り立たない」という、ベニスの街の特性は、もしかすると、経済を過度に追い求める人間の、隠蔽された心の汚さを象徴しているのかもしれない。
今も昔も、「伝染病」に襲われた町の内部で、いくら真実を追及しても、大なり小なり、この「ベニスに死す」で描かれたような、経験をすることになるのかもしれない。

奇しくも日本が新コロナ禍に襲われる中で、この作品を観ると、非常に心を打つ映画だった。

まだまだ、マーラーの交響曲第5番についてなど、書きだすとキリが無いのですが、長々書きましたが、今日はこの辺で。
日本全国に緊急事態宣言が出されました。
不要不急の外出を控えて、みなさまくれぐれも気を付けてお過ごしください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?