ありがとう(((((((((((A)))))))))))オールナイト終了~クラブカルチャーとボク~
渋谷organbar、毎月第三金曜日「真夜中の昭和ダンスパーティー」「Zazueira」そして、「(((((((((((A)))))))))))」(エース)と続いてきた、オールナイトクラブイベントが先日終了した。
2010年から本当に楽しい思い出をたくさん残してくれたDJ小西康陽さん、常盤響さん、ありがとうございます!!
毎月楽しみにしていて、欠かさずではないが、かなりの回数、微力ながら、イチ「客」として楽しませていただき、何よりボクの、「生き様」やクリエイティビティに大きく関わる、絶大な「パワー」をもらったイベントだった。
そして、恐らく、現状の状況から鑑みて、このイベントがオールナイト終了ということは、ボクの15歳、中学三年生から脈々と続いてきた、クラブイベント、クラブカルチャーのオールナイトイベントに参加するのは、もしかしたら人生最後になるかもしれないと思い、今日は勝手にボクの備忘録も含め、1990年代後半からの「クラブ活動」の遍歴を書き記してみる。
クラブカルチャーとの出会い
ボクの「クラブカルチャー」との出会いは、15歳、中学三年まで遡る。
この世に産まれて長らく、クラシック音楽と中島みゆきさん、八代亜紀さんしか聴かなかったボクだったが、母親の影響もあり、「The Beatles」「Simon & Garfunkel」「Carpenters」を聞くようになり、いつしか洋楽に興味を持つようになる。最初はグラミー賞アーティストに興味を持ち、SNOWや、Dr.DREを聴くようになる。
そんな時、どういう経緯だったかよくわからないのだが、中学校の何かのイベントの際、同級生の中でも少し先進的で、レコードでDJを始めた、「ヤスくん」が、中学校の教室にレコードプレイヤーとミキサー、要はDJセットを持ち込み、窓に暗幕を引いて、「クラブごっこ」のイベントを開催した。
まだ、同世代の「不良」といえば、「ボンタン」ズボン(太もも部分が太く、足首が細くなる)、短ラン、茶髪や髪を染めるいわゆる「ヤンキースタイル」が主流だったから、ヤスくんの太いズボンを腰で履いて、黒髪を少しちじれ気味にパーマする、後の「チーマー」スタイルの不良は、岡山ではかなり斬新だった。
そこで、ヤスくんがプレイしたのは、レゲエやスカを中心にした曲目だった。
ボクは、新鮮な感動と共に、そのイベントを受け入れ、何人かの少し「不良」に憧れる、同級生の男女らと共に、全身全霊で曲に合わせて踊った。音楽に合わせて踊ることが、こんなに楽しいのだと知ったのは、この時である。
そのイベントは、騒ぎを聞きつけた先生が駆けつけて、暗幕を開けながら。「何をやっているんだ!!止めろ!!!」
という叫びにより、止めさせられたのを覚えている。
しかし、この後も、確か懲りずに仲間内で体育館でDJイベントを企画したりしていたから、ボクらの音楽への渇望は筆舌に尽くしがたいものであったのだろう。
ボクは、その時、ヤスくんがかけた、「Madness」「The Trojans」「Skatalites」などのSKAのCDを買い漁りまくった。
同時に、「グランジロック」の波が来て、NIRVANAの「NEVERMIND」が、今、最高にイケてる音楽だと思って、踊り狂っていた(今でも反射的に踊り狂うがw)。
そして、中学三年最後に、ヤスくんがDJをするということもあり、ボクのクラスメイトだった、「ちょいワル」の二人と、何となく「ちょいワル」に憧れた?女の子二人と、岡山駅前の雑居ビルにあったクラブ(名前は忘れた)のオールナイトイベントに、5人で参加することになった。もちろん親には、「○○くんの家でお泊りしてくる」という体である。
もちろん、中学生のヤスくんは、前座も前座のDJの一人だったのだが、その日のメインゲストライヴだったのが、「KYOTO JAZZ MASSIVE」であった。その時にも迫力ある「KYOTO JAZZ MASSIVE」のライブが印象に残っているが、その時は意識しなかったが沖野修也さんの演奏を中学三年で生で聴いたと思うと感慨深い。
そのライブも含めて、もちろん12時を過ぎるまで、体力の限り踊りまくって、タクシーで比較的親の監視が緩かった「ちょいワル」な友人の家に、男3人、女の子2人で帰ったのだが、何故か興奮冷めやらぬボクらは、その女の子のおっぱいを触らせてもらおう!ということになり!?ボクも生まれて初めて、Tシャツ越しに、女の子のおっぱいを揉ませてもらった。。。
その日はほとんど寝ないで、友達の家から、朝になってバスで家に帰った。初めてのクラブ、オールナイト体験であった。。。
初めてのクラブ体験は非常に楽しいものだったのだが、高校に進学してからは、クラブのイメージはあまり良くない、というか、高校ではクラブにほとんど行っていない。
実はそのヤスくんとは、同じ高校に進学したのだが、知っている人は知っていると思うが、その頃、クラブイベントは「パーティー」(アクセントは「パーティー」のティーの方)と呼ばれ、そのチケットは「パー券」と呼ばれるようになった。
恐らく、大人の悪い人たちの餌食になったのだと思うが、そのイベントでDJをする場合、箱(クラブ主催者)側から、呼ぶ客の厳しいノルマが課せられるような仕組みができた。
ヤスくんは、学校内で「パー券」を売り始めた。「パー券」は、ワンドリンクついて、1,500円~3,000円くらいだったが、高校生(の大多数)にとって、ワンドリンクはあまり意味がなかったし、CD1枚に匹敵する値段は、決して安いものではなかった。
中学校から馴染みがあり、彼のイベントに参加したことのあるボクは、何度も彼から、勧誘、時には、恐喝に近いくらい強い言葉で「パー券」を売られた。
実は、1回だけ、ボクは、彼に根負けして、チケットを購入した。その頃には、高校の「ちょいワル」な一部の女性達の間でもその「パーティー」に参加するグループもあり、同じ中学校だった、かなりかわいい女の子から、「ムーニーくんもパーティー行こうよ!」と強く誘われたのだった。
しかし、今でもそうなのだが、「義務感」「責任」を感じると、途端にやる気が失せてしまうというボクの性分はその頃から変わりがなく、ヤスくんが「パー券」を強要し、女の子たちが強く誘えば誘うほど、ボクのクラブイベントへの参加意欲は失せていった。
結果として、ヤスくんから「パー券」を購入したものの、ボクの親が外泊には厳しかったこともあり、そのイベントには参加しなかった。
「パー券」のノルマを巡る、恐喝まがいの売買や、未成年の飲酒、チーマー文化の台頭や暴力事件などが問題になったのもこの頃で、ある意味クラブカルチャーの暗黒時代とも言うべき時代を知らないまま過ごしたのは、結果として良かったのかもしれない。
渋谷系との出会いから東京のクラブ進出
「渋谷系」との出会いは、このnoteでは何度か書いているが、NHK「土曜ソリトンside-B」の渋谷系特集との出会いが非常に大きい。
その番組で出演したのが、コモエスタ八重樫さんや、PIZZICATOFIVEの野宮真貴さん、そして、小西康陽さんだった。
岡山が、中古レコード屋が多かったのも、影響は大きかった(もちろん、先にお話ししたDJヤスくんもそういった恩恵に与っていたのだが)。
表町にあった「GREENHOUSE」、「レコード屋」等々。。。
正直なところ、ボクは自分でDJをやろうとは考えていなかったので、CDが主だったのだが、それでも、TOWER RECORDS岡山店や新星堂がかなりの品揃えで、さっさと弓道部を辞めて帰宅部になってからは、正に「レコード部」とも言うべきレコード屋、CD屋チェックを毎日欠かさず続けて、そのころの友人ショウちゃんの岡山市中心部にあった家に必ず立ち寄り、その日の戦果のCDを開封して聴く毎日であった。
当初は、その頃流行った、パンクファッションの源流である、The CrashやSex Pistolsから始まったが、「渋谷系」と出会ってからは、PIZZICATOFIVEから、小沢健二からのフリッパーズギター、トラットリア系のブリッジ、嶺川貴子、カヒミ・カリィ、そして、The Chemical Brothersと、Underworld、電気グルーヴからの、テクノ系を聴き始める。
さらに、Deee-Liteから、大阪のTOWER RECORDSで劇的な出会いを果たしたLalo Schifrinなど、まぁ、多くの人が同じような経験をしたのだろうが、高校時代にボクの今の音楽体系の源流が出来上がったのである。
もちろんそれらの音楽は、クラブカルチャーと密接に結びついていて、さらに延長上にファッションに繋がっていた。そうすると、クラブにはかわいい女の子が集まるようになる・・・と思っていた。
ボクは実際にクラブに足を運ばなかった高校の間に、クラブへの憧れだけを大きく膨らませていた。
ボクが高校時代に製作した、映画「セヴンティーン」では、「少年がクラブに行って、翌朝、自分の音楽的才能に目覚める」というシーンの中で、ボクは自宅の階段にフライヤーを貼りまくって、クラブへの入口を再現するシーンを撮影した。
そんな思いを募らせて、いよいよ首都圏進出!
横浜に住み始めて、最初に行った記念すべきクラブは、表参道にあった、伝説のテクノ系クラブ、今は無き「MANIAC LOVE」だった。
特に人に薦められたというわけでもなく、今のようにインターネットで自由に検索できるわけでもなかったが、当時熱を入れていた純粋なテクノのクラブに行きたくて選んだのが「MANIAC LOVE」で、一人で乗り込んでいったのを覚えている。その選択は、間違っていなかったと思う。
2005年に閉店するまでその後何度も「MANIAC LOVE」に通った。
地下に降りる複雑な階段は、少し隠れ家っぽくて、小さなモニターでは、かっこいいVJ画像や、ルネ・ラルーのアニメ映画「Fantastic Planet」が流れていたりした。
いつも適度な混み具合で、まさに「マニアック」なハードコア、ミニマル系純粋なテクノがかかっていて、表参道という土地柄もあってか、過度に派手で目立ちたがり屋の客も少なく、みんな適度におしゃれで非常に居心地が良かった。
ライターのガスが無くなったかわいい女の子に、黙って火を差し出して、大音量で聞こえなかったけれども、「楽しいよね!!」なんて声をかけて、ただにっこり笑顔を返されたのもいい思い出だ。
学生時代の友人たちと一緒に有名DJ、アーティストのイベントに行くようになったのもいい思い出で、最も印象深い箱は、何といっても「新宿リキッドルーム」だろう。
歌舞伎町の入口を入って、新宿コマ劇場向かいのビルに「新宿リキッドルーム」があり、チケットを握りしめて、胸を躍らせながら、階段の列に友達と並んだ。
小西康陽さんのDJを初めて聞いたのも「新宿リキッドルーム」であった。小西康陽さんとクボタ・タケシさんの対談で、ちょうどその「新宿リキッドルーム」でのイベント「FREE FORM FREAK-OUT」への共演について話題に出てくる記事があったので、掲載させていただく。
ボクの東京クラブ初期体験の頃、忘れられないクラブと言えば、渋谷円山町の「CLUB asia」や、西麻布「YELLOW」であろうか。
「CLUB asia」は、いわば「大箱」の部類で、正直特筆するほど印象に残っているDJはいなかったのだが、ちょいワルな人々や、派手なおねーちゃんなどが集まり、とりあえず寂しくなった時、いつ行っても盛り上がれるクラブという印象であった。「CLUB asia」でオールした後、吉野家で牛丼を食べていると、横のスキンヘッドの兄ちゃんのグループが、「牛丼!牛丼!ギュ!ギュ!ギュ!ギュ!ドンドンターツクツクツクドンドン!!」と、先ほどまでのasiaのノリのまま、バカ騒ぎしていた。「CLUB asia」には、後に友人が映像制作部門に就職することになるとは夢にも思わなかったが。しかし、同じ渋谷に大箱「WOMB」ができると、音楽的には「WOMB」の方が、テクノ、ハウスの有名DJがプレイして、こだわりがあって、雰囲気も好みだったので、「CLUB asia」にはすっかり行かなくなってしまった。
西麻布「YELLOW」は、何といっても、この当時、電気グルーヴ、石野卓球さんがDJをする「LOOPA」が、月一回開催されていたのだ。
毎月とはいかなかったが、1998年には名盤「BERLIN TRAX」を出して、ボクらもノリに乗っていたwww汗だくになって朝まで踊りあかしたwww
近隣、六本木のクラブにもいくつか行ったが、やはり、六本木は、大人の街!?であり、外国人の街でもある。何となく「ディスコ」の印象が残る、派手できらびやかな印象がる一方、西麻布で、看板に文字もなく、黄色のネオンが灯るだけの「YELLOW」は、内部も小さなフロアが三階層くらいに分かれていて、ボクにとって居心地よい空間だった。
1998年12月24日のクリスマスイヴ、ボクは、大学の友人や岡山から上京した女の子(実はむかしから憧れていた)も含めて、かなりの大人数で西麻布「YELLOW」でクリスマスを祝った。ちょうど石野卓球さんの「LOOPA JAPAN TOUR 1998」であり、最高にHAPPYな夜だったwww
「Setagaya Cookin'」「土佐鶴ナイト」そして、ドイツへ
ここまで読んでくれたみなさま、ありがとうございます。
そして、この先を期待してくれたみなさまには、申し訳ございません!!
・・・ボクの思い出話ばかり、あまりに長文になってきたので、この先はタイトルと写真で先を急ぎます。
細かいエピソードは、またの機会に!!
さて、やがて、ボクの周囲でDJをやっていた友人たちは、自分たちでクラブイベントを企画し始める。
代表的なものが、下北沢「AFRO-RAKE」の「Setagaya Cookin’」や、蒲田オッタンタ「土佐鶴ナイト」である。
どちらも大学生時代から、社会人になっても継続していて、ボクも通いまくったなぁ。。。いい思い出ですw
そして、2000年、クラブカルチャーの神髄に触れるべく、ボクは友人とオランダ、ドイツに旅立ったのである。
腹踊り、VJ、そして女装時代
先を急ぎます!細かく書きたいエピソードはたくさんあるので、また追ってnoteに書きましょう!!
社会人になってからも、ドイツベルリンを中心に毎年ヨーロッパ旅行をして、クラブを回った。一番印象に残っているのは、ベルリンAlexanderplatzにあった、「Tresor」!!(現在は移転済み)
東西分裂時代の面影を残す廃墟の地下で、大量のスモークに包まれて、大音量のミニマルどテクノで踊り明かした思い出は忘れられない。
そんな思い出を胸に、日本に帰ってからのボクの踊りは徐々にエスカレートし、フロア名物「腹踊り」が生まれた!!
・・・一方、それまでクラブの「客」としてフロアで熱心に踊ることに情熱を傾けてきたのだが、友人からご縁があり、イベントでVJとして参加するようになったのもこの頃からである。
その後、2007年にボクとマシマ氏の映画「Kenji」が完成、2008年には、名古屋のクラブイベントで虹色JURIさんことまおりさんの、球体関節人形コマ撮りアニメーション「Cir Qeloino」(サーキュロイノ)を上映した。
その後、新宿時代の「OTO」イベントで、伝説の「ロマンチック兄弟」ライヴ。その時も女装で着物姿だった。
朝まで踊りましょう。たとえそれが夢となっても・・・
そんなボクだったが、小西康陽さんがDJをするイベントには、ずっと通い続けていた。
FREE SOUL監修の橋下徹さんや、中村智昭さんらと開催していた青山「fai」でのイベント、そして、今のorganbarにも繋がる、恵比寿「Tenement」でのイベントは、本当に楽しかった。
ボクは、ガッチガチに緊張しながら小西さんにご挨拶していました。
その後、2012年から写真展「ポートレート専科」に参加させていただき、常盤響さんにお会いすることができた。
その後、organbarで「真夜中の昭和ダンスパーティー」に参加し始めた当初も、ボクは何度か女装で参加させていただきましたwww
・・・といったところで、ずいぶん長くなってしまいましたので、また、詳細な思い出は個別に書きたいと思います。
本日は小西康陽さんの印象に残った文章を引用させていただき、これにて失礼いたします!