「新今宮のホームレスとデートする」記事は何が問題なのか
新今宮に住んでいるホームレスとデートする様子を描いたnoteが話題になっていたので読んでみた。この記事への意見は様々であるが、記事そのものへの批判と、行政がPR記事として依頼しているという構造への批判などが混在している印象である。この記事では、⑴記事単体の問題点 ⑵この記事が行政が依頼したPR記事であるという構造への問題点 そして⑶西成の再開発にまつわる複雑化した問題点 の三つに的を絞って書いていきたい。
⑴「松のやで定食を。」という記事に潜む問題点
この記事で書かれた内容について、各人もつ感想は様々であるし、記事へのコメントを読んでみると肯定的に捉えた人も多かったようだ。一方で、貧困に直面している人との交流を、その本質を無視して心暖まる交流として描いた記事としての軽薄さに違和感を感じた人も少なからずいると思う。まず、PR記事であるという以前に、この記事単体で見た時にどういう問題点があるのかについて、自分なりに考えをまとめておきたい。
しまだあやというライターさんの過去の記事も読んだが、(文章を生業にしているひとだから当たり前かもしれないが)文章も上手くて、読ませるエッセイを書く事ができる方だと感じた。
だからこそ、先のnoteをみて、感動した、といった反応をする人が存在することは理解出来るし、そうした感情を抱く人を出ること自体を否定したくはない。しかしながら、ホームレスとの心の交流を単なる”エモい”エピソードとして消費することに対しては、書き手も読み手ももう少し立ち止まって考えなければいけないだろうと思う。
特にnoteという誰でも記事が書けるプラットフォームの特性上、書かれる内容は日記やエッセイなどの個人的な体験を主軸にした内容が多くなる。そして、何気ない日常やちょっとした日常を切り取った素敵な文章、著者の感性に寄ったもの文章が広く受け入れられやすく、その背後にある倫理的問題点が蔑ろにされてしまう、という傾向があるように思う。
まずこのnoteでは、文章全体で「自分(筆者)との違いは家がないということだけだ」ということが強調されている。
これはたぶん、デートだと思う。
ふつうにデートだと思う。
ただひとつ、ふしぎなのは、私もその人も、お互いの名前を一切、呼ばないこと。この先、また会うかどうか、わからないこと。そして、私には帰る家があるけれど、その人にはないということ。
「ホームレスとデートって、正直どうなの?」
そう思われたかもしれない。でも、私の中では、たまたま出会って、たまたまデートし、たまたま友達になった人。その人がたまたま、家を持たずに暮らしている人だった。それだけのこと。
依頼記事でありながら、偶発性を装うことへの違和感はさておいて(エッセイという体裁であるからある程度仕方ないことではあるだろう)、筆者にとっては、あくまで「家がないというそれだけのこと」であると、筆者とホームレスの男性との間に横たわる差異を均等化しようとしている。
2000円使うと決めたけど、「一緒にお昼を食べたいから定食をごちそうする」と、「お兄さんが吸いたいタバコを買ってあげる」は、何かが違う。うまく言えないけど、対等じゃない感じがする。
そもそもこれは、「借りができた分、貸しをつくる」というルールから始まったこと。お兄さんも私に「貸し」を作るのがいいかも、と思った。
そして繰り広げられる”貸し借り”のくだり。この記事全体で、「私とあなたは平等で対等な立場である」というメッセージが幾度も散りばめられている。「ホームレスの人だから奢った」のではなく「この街に借りがあるから奢った」という風にすり替えることで、背後にあるもっと大きな差異に(おそらく意図的に)目を逸らさせている。
筆者が、もし「家がない」ということ以外何も変わらない、と本気で思っているのだとしたら、なぜ自分と何も変わらない人が「家がない」という状況に陥っているのかについてなんらかの言及や考えがあって然るべきであろう。しかしそこには決して踏み込まない。
「うーん……できれば、駅越えて向こう側、泊まってほしいかな」
「天王寺のほう? 高くない?」
「大丈夫、2000円台のビジネスホテルもある。そっちのほうがいいよ」
「まあでも、せっかく新今宮に来たし、普通のビジホより、」
「お願い。」
お願い、って、久しぶりに言われた。
「それか家。家に帰ったほうがいい。あんたは、家があるねんから」
お兄さんの「来なくていいよ。じゃあ、またね」を聞いたときは、矛盾してる返事やなあ、とつっこみかけたけど、よく考えたら、成立する未来も、あるかもしれない。
ホームレスの男性がここには泊まらない方がいいとお願いされたことの本当の意味、そして現地の人から発せられる「来なくていいよ」という言葉の重みを、少し考えたら分からないはずはないと思う。出会いを描いたエッセイという体裁で無毒化された文章は、読んでいて心地がいいかもしれない。だけれど、貧困という重いテーマを用いておいて、なんのとっかかりもない”綺麗な文章”が生まれるとしたら、なんらかの棘がそぎ落とされているということを意味しているのではなかろうか。
本当に誠実に愚直に貧困問題を書こうとするなら、そこには少なからずこちらに訴えかけるもの、読んでいて居心地の悪い感覚、があるはずだ。そういう意味で、この記事は、そうした棘のようなものを取り払い、貧困問題をうまくエンターティメント化しているとも言える。皮肉的な言い方になってしまうが、行政がその地域の良さをアピールするために依頼した文章としてみるなら、とても優れた文章だとも言える(*1)。
マジョリティの特権のひとつは、「見なくてもいいものを、見なくてもすむ」ことだ。釜ヶ崎で暮らしている人々にとっては、明日の暮らしにも精一杯で、そこでの生活は、彼らにとっては日常である。
非日常を味わうために、部外者が立ち入り、「優しい人々」「素敵なお店」「安くてなんでも手に入る街」とその上澄みだけ掬って帰ってしまう態度は、そこに暮らす人々の営みを軽視した傲慢な態度なのではなかろうか。
⑵「ホームレスとデートする」記事を行政が地域のPRとする構造のグロテスクさ
「貧困地域に行って現地の人々とその場限りの交流する」という行為には、スラムツーリズム(*2)(あるいはダーティツーリズム)との類似が見られる。
「貧困を見世物としている」ため倫理に反しているとの批判もある一方、そうした観光業によって現地の人々の生活を立て直すという側面もあることから、一丸に悪とくくるのは性急な見方だが、その搾取的な構造には自覚的であるべきだろう。
件のnoteでは、「名前も聞いてない」と書かれていることから、この記事に出ているホームレスの男性には、(せいぜいコピーした記事を手渡しするくらいはするかもしれないが)この記事の報酬は行き渡らないのだろうと推測される。「対等な人間関係」を演じておきながら、実際は決して対等ではない。
「なんてやさしいんだこの街は...」といった具合に、現地の人々がいかに優しいか、ということが書いてあるけれど、その「優しさ」は、何もその場限りの観光客に向けられたものでは無い。見ず知らずの人が親切にしてくれるのは、国や行政の支援が行き届かないところでは人々が助け合わねば生きていけないことを示している(*3)。様々な問題が存在している地域の負の側面に蓋をして、「いい人ばかりでよかった」と単純に言い切ってしまうことは、本質を見誤る危険な態度だと思える。
行政に見捨てられ、相互扶助によって生きていくしかない人たちが大勢いて、そういった人達が築きあげた草の根のシステムを、観光資源として安易に流用してもいいものなのだろうか。これは先ほど述べたスラムツーリズムの問題と重複しているところがある。
この世界は、なんでも準備や計画を求められがちだけど、新今宮という街は、なりゆきでも「行けばなんとかなる街」だった。この世界は、信じられないものが多いけれど、新今宮という街は、「助け合いの街」で、そして、「信じる力が潜む街」だった。
それくらい、新今宮というところは、
「なんとかなる街」だと、思っている。
文中で出てくる「なんとかなる街」というのは、「新今宮ワンダーランド」のキャッチフレーズにもなっている。新今宮という地区が再開発されるというニュースは数年前から話題になっており現在進行形で行われている。こうした都市開発によって危惧されるのは、ホームレスの人々の居場所がなくなってしまうのではないか、ということだ。
全国有数の貧困地区として知られるあいりん地区は、2012年から始まった西成特区構想により、「不衛生」「治安が悪い」といったイメージが薄れた。2022年には星野リゾートが、あいりん地区の近くにホテルを開業する予定もある。こういった再開発の結果、社会的弱者が町から排除される可能性があるとも言われている。
「現地の人の優しさに触れた」という個人の体験を記したエッセイのように書いておきながら、実は行政側が依頼した広告記事であるということ、実際に土地を開発し、ホームレスを排除する立場にいる行政側が依頼して書いているという構造のグロテスクさが、この記事では巧妙に隠されている。
(公開当初は冒頭にPR表記がなかったのですが、今現在では追記がなされています)
ホームレスの人々、貧困に陥っている人々に関わることそれ自体を批判しているのではない。むしろ前から西成、あいりん地区に関する取り組みは様々にあるし、この事例でなくても、例えば「ホームレスの人と交流してみた/○○あげてみた」 というような企画は探せば沢山ある。
しかしそうしたものが、「困っている人々への支援」が目的ではなく、「ホームレスの人達っていい人なんですね」と自身や周囲をいい気分にしてインスタントな感動を得るために使われているとしたら、そうした取り組みのあり方は見直されるべきであろう。
⑶ 新今宮の再開発にまつわる複雑化した問題点
貧困地区の再開発において問題となっている、都心で貧しい労働者が住めなくなったり、追い出されたりする現象をジェントリフィケーション(*4)という。釜ヶ崎のみならず、こうした現象は日本全国で起こっている。「排除したい行政側」と「抵抗する現地の人々」という二項対立であれば話は単純なのだが、そこには、「その周辺地域に住んでいる人々の考え」あるいは「アクセスの良いところや土地を有効活用したい企業側」「地域の活性化を図りたい国や行政側の立場」など、いろいろな人々の思惑が絡まっている。
――― 世界の都市ではどこでもそうですが、釜ヶ崎のように、貧しい労働者が暮らす街は、だいたい都心にありるものでした。そのような地域から労働者が住めなくなったり、追い出されたりするということが、この30年~40年のあいだに世界の各地で起こるようになりました。この世界的な現象を、「ジェントリフィケーション」といいます。
(中略)
――― これは、③の雰囲気による排除にかかわる重大な問題です。考えられるのは、たんに「人情が無くなる」のではなく、一方で「人情」がやたらと強調されたり演出されたりしながら、他方で人情が潰されていくという事態です。これを考えるうえでは、「生きられる人情」と「売りになる人情」を分けることが肝心です。ジェントリフィケーションは、ただ街を均質なものにさせたり、ユニークさを消し去ったりするものではありません。むしろジェントリフィケーションは、「売り」になるような街のユニークさを必要とするし、無理矢理にでもつくりだそうとします。だから、釜ヶ崎の「人情」や「下町らしさ」は、「お客」や消費者を呼び込むための「売り」として残されるだろうし、過剰に演出されることにもなるでしょう。
例のnoteでも、また「新今宮ワンダーランド」の企画でも繰り返し宣伝される「人情」というワード。そうした「優しさあふれた町」という側面を強調するのは、新今宮のイメージを刷新するためであろう。
この記事が孕む問題点については今まで詳しく述べてきた。一方で、行政側がこうしたPRを通して「新今宮のイメージアップ」を図ろうとすること自体に対して、頑なに批判すると、かえって問題解決を遠ざけてしまうことにもなりかねない。こうした企画も、現状をなんとか立て直そうとしている流れの中にあるのだということは頭の隅に置いておいたほうがいいように思う。
釜ヶ崎を「新今宮ワンダーランド」として観光地化することには、倫理的な問題点であったり、先ほど言及したような「スラムツーリズム」的な搾取の構造を容認することの問題点はある。しかしながら、観光業によって収益を得ることで、ホームレスの方に還元されたり、周辺地域の治安の改善や問題解決につながったりするのであれば、そうした方法をとらざるを得ないことも出てくるだろう。
下の記事でも述べられているように、他の自治体に比べて(相対的にではあるが)西成区の福祉は手厚いため、他の自治体が行き場のない生活保護受給者を押し付けてきたという現状がある。
いろいろな反対意見、問題点がある中で、どう貧困問題を解決していくか。そのためにやはり当事者の目線、当事者の立場に立った支援であったり政策が必要になってくる。部外者である自分がこうした記事を書くこと自体も、ある種搾取的な面があって、公開を迷ったところもあるのだが、あくまで一個人の意見として、考えたことをここに書き記しておきたい。
最後に、NPO法人Cocoroomの自主制作映画『釜ヶ崎オ!ペラ』の動画を載せておく。この動画では、釜ヶ崎に住む人々の生の声を聞くことができる。実態を完全に把握できるとは思わないが、個々人がこの地域について本当の意味で考えるきっかけにはなるだろう。
(編集後追記)
2021/4/16 誤字や曖昧な箇所に修正・追記を加えました。
2021/4/30 新今宮ワンダーランドを巡る当事者性と部外者性について、より詳しく記事を書きました。
注釈
(*1)あえて擁護するとすれば、この記事が依頼記事であるということを踏まえると、筆者の考えとこの記事で書かれている内容が完全に一致するとは限らない。この記事への批判は作者本人ではなく、この記事で書かれた内容、あるいはこの記事を依頼した行政側に行われるべきだと個人的には考える。
(*2)スラムツーリズム (Slum tourism) は、貧困地区の訪問を伴う観光の一種でインド、ブラジル、ケニア、インドネシアのような幾つかの発展途上国において増えている。
(*3)最近よく見る「子ども食堂」も、国の支援や福祉が行き届かないために仕方なく構築された相互扶助のシステムを、国や行政が奨励するという構造が取られており、国が行えないきめ細やかな支援を民間の運営する子ども食堂が担ってしまっているというのが今の現状である。
(*4)ジェントリフィケーション(gentrification)とは、インナーシティや都心近接低所得地域といった低所得層の居住地域を、再開発や文化的活動などによって活性化することで、中・高所得層や富裕層が流入するようになる人口移動現象のこと。 「地域の高級化」「都市の富裕化」。
支援先・参考記事一覧
釜ヶ崎の支援を行っているNPO法人へのリンクはこちら↓
ホームレス支援を行っているNPO法人はこちら↓
【参考記事一覧】
当事者目線で書かれたヒオカさんのnoteはこちら↓
西成あいりん地区/新今宮及び再開発について、詳しく知りたい人はこちら↓
スラムツーリズム/ダーティツーリズムについての記事はこちら↓
その他参考記事
(4/16 追記 ジェントリフィケーションについてかなり詳しく解説されているnoteへのリンクを追加しました↓)
(4/17 追記 差別の構造について、こちらのnoteの後半で詳しく言及しています↓)