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汝自身を知れ、我唯一のことを知る

誘惑におぼれる水瓶座「恍惚」より

ウツミの心理描写なんですけど、これ、わたしが常々思っていることでもある。
自分のことを考えるのが苦手だと初めに気付いたのは多分就活の時だ。自己分析、というやらがひどく苦手だった。考えても自分のことがよくわからない。「これをした」という事実は書けても、「何故それをしたのか」という動機が思い出せない。いま現在自分が立っている場所やしていることについても、明確な意思があるかと言われると難しい。昔から夢や目標という言葉が嫌いだった。そういう不確定な将来について考えたり努力したりすることが性に合わなかったからだ。

私は趣味や好きなことについて聞かれると、一度ぐっと考えあぐねてしまう。(勿論、その場では相手に合わせて適当に会話を広げるが)自信を持って何かを好きだと言うことが苦手なのだと思う。だってその事象に対して自分より深い知見を持っている人なんて大勢いるはずで、自分が簡単に好きと言っていいのか不安になる。好き、に対して落胆されるのが怖いのかもしれない。お前の好きってその程度なわけ? みたいな。(別にみんなそんな攻撃的なわけじゃないのにね。これって裏を返せばわたしが周囲の人間に攻撃的な思想を持っているからそう思うのかも知れない。気持ち悪。やさしくありたいよ)

ただ、自身がこういう性格な要因ははっきりとしている。ひどく過保護な家庭で育ったからだ。わたしは何不自由なく生きてきて、不便なく、むしろきっと平均よりもかなりいい生活水準で生きてきた方だと思う。それに関しては、両親に感謝しているし、家族のことはすきだ。けれど自分がもし万が一家庭を持つことがあれば、わたしはわたしが育てられた環境を真っ向から否定しながら家族というものを築くだろう。優しさと過干渉は別物だということに私はもっと早く気づかなければならなかった。自身の人生について考えた時、本当はこれまで自分で何も選択してきていないことを知って絶望を覚えた。それは今もずっとそう。親元を離れて気づかされたことが多すぎた。学生の頃、恋人に依存体質だったのも家庭環境が深く関係していると思う。私はもっと早くひとりになるべきだったのだ。いま現在、ひとりで何不自由なく生きていける自分のことがすきだ。いま、人生でいちばん自分のことが好きである。

恋人や友人、もっといえば関わる全ての人間に対して仮面をかぶることが得意だと思う。人から好かれることが得意だ、と言葉にすると気持ち悪いが、本当に得意なので仕方がない。私の物語の主人公たちとよく似ている。わたしは”どうでもいい”からやさしくできるし分け隔てなく接することができる。逆に言えばひどく重い感情を持たないようにしているのだと思う。自身の重い感情はとてつもなく厄介で、愛するということが苦手な分、絶対に他人とは一線を引いている。こういう文章を書いているくせに、現実のわたしは誰もが口を揃えて明るい人間だと言う。明るいってなんだろうね。よくわかんない。(唯一、創作を通して知り合った人たちは、基本相手の文章や物語に惹かれているので、リスペクトを挟んだとてつもなく重い感情を持っている、ごめんなさい、大好きで)

まあでもわたしはわたしのことがよくわからないので、こんなふうに書いている日もあれば、全く別の視点で自分を見ている日もあるし、何も信用しないで欲しい。思想は変わるし、思想が変われば自身への評価も変わるし、他人への接し方も変わる。わたしに確固たる意思とかないので、常にぶれながら、なんとか生きているし、なんとか文章を綴っている。そんな感じ。

ただひとつ思うのは、自分や世界について深く考え出すと、他人のことがひどく愚かで浅はかに見えてくる。誰にでも優しくできるのに、誰にも心を見せたがらない、誰にでも好かれるのに、誰のことも本気で愛せない、そういう人間になってしまうので、人間というのは多少考えが浅い方が幸せになれる。まあなんにせよ、わたしが話す言葉は常に変化するので、信用しないでとだけ言っておこう。ほんとうはもっと深くやさしく愛情深くありたいよ。全部戯言。(何が言いたいのかよくわからない、ただ思ったことを書き殴った文章になってしまった、まあこれはこれでいいか)おわり。



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