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Road to Nowhere : ユートピアは客席を越えて(『アメリカン・ユートピア』 )

デイヴィッド・バーンもトーキング・ヘッズも、いつかどこかで名前を聞いたくらいにしか覚えがなかった。けれども、渋谷のシネクイントでこの映画を文字どおり「浴びて」からというもの、僕のアップルミュージックのプレイリストは彼の曲で埋まってしまったというわけだ。

冒頭、舞台に一人で登場したバーンは、奇妙な脳みその模型を抱えながら観客に語りかけるように歌い始める。そしてショーが進むにつれ、舞台上には徐々にバンドメンバーが増えてゆく。はじめ、観客である僕の目はバーン一人を追うのだが、中盤をすぎたあたりからむしろ一人一人のパフォーマーに目を奪われていることに気がつく。

劇中でバーンも強調しているように、バンドメンバーは人種もバックグラウンドも、もちろん演奏する楽器もまったく異なる人たちによって構成されている。けれども、各々が各々の音を奏でながら舞台上を縦横無尽に駆け回るうちに、観客は舞台上にひとつの奇妙な連帯を目の当たりにすることになる。冒頭のバーンの「主人公性」が消え去り、全員が一匹の生き物であるかのように舞台上に息づくのだ。

理想の社会の形を考えるとき、「アジサイ」という花は一つのモチーフとなりうる。アジサイは小さな花が美しく咲くことで、全体としての美しさを形づくる花だ。同様に、社会を構成する一人ひとりがそれぞれに個性を発揮することが、結果として集合としての社会の美しさをも担保する。バーンは人種の坩堝であるアメリカの理想的な一体性を、人々の<ちがい>を出発点にして、ブロードウェイの舞台上に現出せしめたということなのだ。

バーンが劇中で何度も言及していたのは、「肉体を超えた人間性を作り出すのは、他者とのつながりである」ということだった。ユートピアは多様な人々の集合体であるがゆえ、そのユートピアを構成する最小単位は「人と人との関係性」に他ならない。「私は目の前の相手にどのように接することができるか。」それは「白人のおじさんがこの曲を歌っても良いか?」というジャネール・モネイへの問いかけを導きながら、終盤の「ユートピアは我々の中にある」という言葉につながってゆくというわけなのだ。

そして今回の映画でもっとも重要なのは、バーンの<ユートピア構想>が舞台という作られた空間を飛び出して、客席を通り、舞台袖を抜け、「街に飛び出してゆく」という描き方をされていることである。

20曲目の”Road to Nowhere”でバンドメンバーは客席へと降り立ち、観客とハイタッチを交わしながら演奏を行うことで、舞台特有の「観る者/観られる者」という境界線を軽やかに越えてゆく。もちろん、最高潮のボルテージを迎えたこの場面でエンドロールを流すこともできただろう。しかしこのショーはシアターの中だけに収まらない。彼らは自転車に乗ってニューヨークの街へと繰り出してゆく。「アメリカン・ユートピア」という映像の名のもと、私たち観客はバーンのユートピアが<現実の世界へと流れ出すさま>を目撃するのである。

"僕たちは行き先の無い旅の途中にいる
行き先の無い乗り物に乗って
一緒に行かないか?

僕の心の中には街がある
一緒に乗って行かないか?
そこはとても遠いけれど
日々大きくなっている
大丈夫だよ
全ては上手くいく

今朝の僕は気分が良い
君には分かると思う
僕たちは楽園へ繋がる旅の途中にいる
さあ、行こう!"

そして映画は、高校生たちが歌う「Everybody’s Coming to My House」に乗せてエンドロールを迎える。「元々は"早く帰ってほしい"という皮肉を込めた曲だったが、彼らが歌うと本当に歓迎しているように聴こえて驚いた。」そう振り返る<バーンの耳>は、青年たちの歌声に未来のアメリカへの希望を聞きとったのであろう。アメリカン・ユートピアはあらゆる<個>が受け入れられ、輝く未来である、と。

バーンたちが歩む道は、この世のどこかに用意された理想郷へはつながっていない。しかしその「Road to Nowhere(行き先のない旅)」は、私たちの心の中へとつながっているのだ。そのことに気づいた僕たちは、すでにユートピアに向かう旅の途上にいるのである。

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