「マンキウィッツ」という名の鳥ははばたく(デヴィッド・フィンチャー『Mank マンク』 )
たとえば同じ一本の映画だとしても、その背後に隠されたストーリーを知ることで作品の見え方がまったく変わってしまうということがある。この映画を観るまで、僕にとってオーソン・ウェルズの『市民ケーン』はいわゆる「映画史に残る名作」でしかなかった。けれどもその脚本を描いたマンクウィッツのストーリーを知ったがさいご、『市民ケーン』は僕にとって特別な作品に様変わりしてしまった。デヴィッド・フィンチャーの『Mank マンク』は、まさに観る者を「映画の魔法」にかける作品であると言えよう。
「マンク」ことハーマン・J・マンキウィッツは、運転中の事故によりベッドに寝ている状態からこの映画ははじまる。ブラインドをおろし、薄暗く埃っぽい部屋は、モノクロのスクリーンと相まって朝なのか夜なのかも分からない。しかし、マンクの回想と現在とを行き来しながら『市民ケーン』の原稿を書き上げてゆく中で、マンクの部屋には日が差し込み、最終的にマンクは家の外へと出てゆく。
マンクはかつて「責任が分散されるから」という消極的な理由で共同執筆の制作スタイルを取っていた。だからマンクは『市民ケーン』の脚本が完成したあとも、脚本にクレジットを入れろというハウスマンの提案を頑なに断っている。けれども、マンクは妻であるサラとの会話、そして晩餐会の回想を経て、ウェルズとの契約を破ってでも「マンキウィッツ」の名前を脚本に入れることを決断する。そしてウェルズと別れたまさにそのタイミングに、リリー・コリンズ扮するリタの元に「生きている」という知らせが届く。脚本に名前を入れると宣言したあの瞬間、マンクは映画という歴史の中に「はじめて生きた」と言えるのではないだろうか。
マンクが描いた「ケーン」のモデルは新聞王ハーストであったが、同時にマンクは自身の姿をも重ねていた。マンクは冒頭から一貫してケーンのモデルの正体の名言を避けるし、「散らばる白い紙」という書き出しの描写からも明らかにマンクは自分自身をもモデルにしていたことが分かるだろう。「俺はまだ何一つ成し遂げていない」とマンクはつぶやくけれども、彼はケーンのように落ちぶれはしなかった。マンクはケーンの人生を描くことを推進力にして、宮殿の外へと飛び出して行った。終盤、弟のジョーの背中に投げかけるように、彼は「マンキウィッツ」という名の鳥になってはばたいていったのである。
では、マンクとケーンの違いは一体なんだったのだろう。それは「哀れなサラ」の存在を置いて他にはないだろう。マンクは冒頭から終盤まで繰り返しサラに「なぜ愛想をつかさない?」「What do you love me? 」と問い続ける。サラはその度に答えをはぐらかすが、終盤、ウェルズを自宅に迎えるシーンで「あなたといると退屈しない。イライラしたり悲しくなることもあるけど、ここまで尽くしたのだから最後まで見届ける」と答えるのだ。
マンクはマリオンと宮殿を散歩するシーンで、『ドン=キホーテ』の作者であるセルバンテスの言葉を引用する。「世に様々な道あれど、何にも勝るは愛しい女に会える道」。そしてマンク自身の言葉をこう続ける。「様々な言葉が世にあれど、何より喜ばれるのはもう関わらぬと告げる言葉」。
あのときマンクが付け足したケーン的なニヒリズムは、彼が原稿を書き上げる過程を通して消滅していったのであろう。サラはマンクに対して「もう関わらない」とは決して言わない。むしろ「死ぬまで関わり続ける」という言葉を告げるのである。サラとのこのやりとりがあったからこそ、マンクはウェルズに反抗できたし、クレジットに自身の名前を入れるという決断を下すことができたに違いない。
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本作品におけるフィンチャーの仕事は「歴史の救済」に他ならない。ベンヤミンがクレーの「新しい天使」を「歴史の天使」と解釈したように、彼は映画の歴史に取り残された瓦礫の中から「マンキウィッツ」という一人の男を救い出したのだ。
一方で、作品を作ることは作り手の態度の表明に他ならない。脚本や映像が人の手によって創られるがゆえに、そこに描かれる人々やストーリーは「プロパガンダ性」を帯びざるを得ない。なぜなら意識的にも無意識的にも、創作という行為には作り手の「意志」が込められるからだ。
さらにフィンチャーは「観る側」の視点にも意識的だ。「人は映画館の暗闇の中で観たものを信じてしまう。俺たちの責任は大きい。」こう劇中で宣言した上で、マンク、そしてフィンチャーはこのメタ的なストーリーを書き上げる。ここにはフィンチャーとマンクの創作者としての重なり合いを見て取ることができる。
とするならば、「俺の仕事は物語を紡いで方向を示すことだ。」そう自身の仕事を定義するマンクが、新聞王ハーストをモデルに『市民ケーン』の脚本を書きそこに自身のクレジットを入れたのは、「後世のため」に自身の態度表明をするためだったと考えられる。同時に、フィンチャーが「いま(2020年当時)」この映画をつくったのは、トランプ率いる共産党によって分断の嵐が吹き荒れていた世の中における一種の態度表明だったのかもしれない。
こうした、「作品をつくる」という行為が決して逃れられないプロパガンダ性(メッセージ性)は、『市民ケーン』におけるケーンの「自己愛」とどう切り分けられるのだろう。ケーンは「社会的弱者の味方と言いながら、結局自分のことしか考えていない」と批判される。けれども、「創作」は自意識なくしては成立しない行為であるようにも思える。誰かを愛することは、同時に自分の中に沸き起こる愛情を愛することでもあるのではないか。「誰かのため」と「自分のため」とは表裏一体なのではないか。私たちは一体何を信じて作品をつくり、何を信じて他者と接すればよいのだろうか。ケーンが死に際につぶやく「ローズバッド」という言葉は、この映画を中心に交差する様々な視線に、愛にまつわる「単純な問い」を投げかけるのである。
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