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旅に帰る

僕はいま、会いたい人に会いに行く短い旅の途上だ。それも「必ず会える」ではなく、「運がよければ会える」という目的地のあってないような曖昧な旅である。

ここ数年、仕事や旅行でたびたび移動はしていたけれど、旅程も時計もいらない旅は久しぶりで気分がいい。旅の本質は「道ゆきを楽しみながら歩けること」であり「気になる路地を気兼ねなく曲がれること」ではないかと、人が波のように行き交う品川駅を歩きながらぼんやり思う。

(彼らはみな忙しなく腕時計を気にしながら、それぞれの「目的地」へと急いでいた。その様子は主人の目に怯える召使いを連想させた。それは普段の自分自身の姿でもあった。)

沢木耕太郎は『深夜特急』でこんなことを書いている。「たとえ同じ場所に行くとしても、若い頃の旅と歳をとってからの旅は全く違う旅になる。人には誰しも『今しかできない旅』というものがある」。その旅に出る機会を逃したら、もう一生チャンスはないかもしれない。

本の行間からごうごうと唸る風を感じた高校卒業間近の僕は、見事「旅の病」を発症した。サン=テグジュペリの情景を求めてサハラ砂漠で一夜を過ごしたり、エミール・クストリッツァの失われた祖国を訪ねて旧ユーゴスラビア圏を歩き回ったり、10時間の長編映画『SHOAH』を観た翌月にアウシュビッツへ飛んだりした。その病は28歳になった今も治る気配は全くなく、むしろ「本を作る」という形に拡張をはじめている。

子供と大人のはざまにゆれていた18歳の僕は真冬のヘルシンキのホテルの一室で、初めての一人旅で火照った身体の熱を逃すように旅のエッセイを書いた。そこには「自分の旅の欲求は『社会からの家出』に似ている」ということが書かれている。

あの夜から10年の月日を経た今、「家」という視点から改めて旅を考えてみると、旅する時はむしろ家に帰るような、当時とは反転した感覚があることに思い当たる。それは作りたい本を作っているときも同じだ。社会や他人に規定された「生」を生きる居心地の悪い時間を「家出」と捉えること、旅するときの「生きてる!」という煌めいた心地を戻るべき「家」と捉え直すこと。

それがどんな形態であろうと、「旅への欲求」がなくなる時が死ぬべき時かな、なんてロマンチシズムを抱く僕は未だに大人になれていないのだろう。「生きてる!」という心地を求めて、僕は何度でも旅に帰る。居場所はいつだって旅の途上にある。

ー 品川駅から京都駅へ向かう新幹線にて

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