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夜間非行 第6話
鷹桐動物病院に現れたのは、築地警察署地域課の二人組だった。五十代半ばほどと思える年長と、三十代前後と思しき若手はどちらも男性で、忍から事情を聞くなり、ドクロマスクを引っ立てた。
「詳しいことは署の方で伺います」
「なんだよ、俺は被害者だぞ。金をパクられたんだ」
ドクロマスクが叫ぶ。往生際が悪いが、保護犬に着火したという罪は動かしがたい。しかし、罪の自覚がないのが目に余る。
人間を丸焦げにしたら極刑は免れないが、動物ならば焼いてもよかろう、と考える傲慢さが透けて見えて、反吐が出そうだった。
動物も人間も、同じ命であることに変わりはない。
本来、命の重みは同じであるはずだが、現実は違う。
つくづく腐った世の中だな、と忍は思った。
おおよその経緯は忍が説明したが、若手の警察官は気が利かないらしく、傷心のカヲルを突き回すようにあれこれ訊ねた。
ただでさえ心を痛めているカヲルに事情聴取をするのは酷だ。
生きたまま焼かれた犬の気持ちを追体験でもしてしまったのか、カヲルはショックのあまり声が出なくなってしまっていた。無理に声を出そうとしても、ただ空気が振動するだけのような、掠れた、か細い音の波にしかならない。
警察の聞き取りには肯くか、首を振るかだけで対応した。
「スマートフォンの中身を拝見させてください」
疑うのが仕事である警察は、マッチングアプリの女がカヲル本人ではないか、と疑っているようだった。ドクロマスクを連行してくれたまでは良かったが、もうこれ以上の追及はして貰いたくない。
「手当てがありますので、聞き取りは後日にしてもらえますか」
忍がやんわりとお引き取りを願ったが、律儀なカヲルは小走りにロッカールームに向かい、スマートフォンを持って戻ってきた。
警察官に画面を見せる。インストールされている主なアプリは、ペットの飼育記録アプリ、ペットの体調管理アプリ、獣医師監修の健康相談アプリといった具合で、マッチングアプリの影ひとつない。
「警察が到着する前にアプリを削除したりしていませんよね」
ろくでもない鎌をかけてきたが、カヲルはふるふると首を振った。
忍は、もういいから帰れよ、と怒鳴り出しそうだった。
カヲルはまたも、ふるふると首を振った。忍の苛立ちを察して、服の裾をそれとなく引っ張った。意味するところは理解できる。
そんなに怒らないでよ、しーちゃん。
ようやく聞き取りが終わり、警察が立ち去っていった。
税務調査に続いて、警察の取り調べ。まったく散々な一日だった。
カヲルは手術台に横たわるゴールデンレトリバーを見やり、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らした。堪えていた涙がこぼれ、止まらなくなる。
「……しーちゃん」
邪魔者が退散して安心したのか、カヲルに声が戻っていた。
「ぎゅっとして、しーちゃん。今だけでいいから」
「ああ」
遠慮がちに抱擁し、お互いの体温を確かめ合う。
「お父上がばったり戻ってきたら、どうしよう」
「知ったこっちゃねえよ」
カヲルが上目遣いで見つめてきた。
「国試に受からないと、ちゃんと抱きしめられない?」
ずばりと核心を突かれ、忍は思わずそっぽを向いた。
「しーちゃんは分かりづらいけど、分かりやすいね」
カヲルは忍の胸に顔を埋め、囁くように言った。
「私はね、しーちゃんが最初で最後の人になったらいいなって思ってるよ」
忍はまったく嬉しくなさそうな表情を浮かべた。
「それは光栄だね」
「わあ、ぜんぜん光栄に思ってなさそう」
カヲルが憮然とするが、だいぶ調子が戻ってきたらしい。軽口を叩けるぐらいの心境にはなったようだ。
「税務調査はどうだったの?」
不遜な徴税ロボットのことは忘れかけていたが、思い出すなり、怒りが蘇ってきた。殺意さえも抱いたが、あえて否定はしない。
「夜道に気をつけやがれ、とだけ言っておく」
「しーちゃんが言うと、本気っぽいから怖い」
カヲルが呆れたように笑った。
「見た目は大人しいのに、怒ると手が付けられないよね。こんな好戦的に育てたつもりはないのですけどねえ」
「育てた? どの立場から言ってる」
「獣医の先輩としてかな」
「見てたのかよ」
「陰からこっそり」
どうやらカヲルは、忍がドクロマスクを責め立てる一幕を覗き見していたらしい。覗き見は結構だが、育てられたつもりはない。
「つかぬことをお訊ねしますがね、カヲルさんや」
「なんでしょうかね、しーさんや」
先輩風を吹かせたのが癪だったので、ちょっとだけ逆襲した。
「マッチングアプリ、使ったことあんの」
「なに、それ」
お道化て答えるかと思いきや、だいぶ灰色の答えだった。
「警察の聞き取りのとき、たまたま声が出なくてよかったな。今の答えをしたら、今日は牢屋で眠ってたかもしれない」
「しーちゃんはほんとうに口が悪いよね。声が出なかったのは嘘じゃないよ。ほんとの、ほんとに出なかったもん」
小さな子供が泣いて訴えるように、カヲルが地団太を踏んだ。
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
「あー、ぜったい疑ってる。嘘じゃないもん。ほんとに声が出なかったんだもん」
忍が納得していなさそうなのが不満なのか、「しーちゃんのへそ曲がり。陰険。性悪」などとカヲルはぶつぶつ文句を並べている。
猛禽愛のカヲルがマッチングアプリなんぞを利用していたとは考えがたい。夜な夜な男を漁り、仮想通貨投資にかこつけた詐欺を働いているとしたら、昼間はずいぶん本性を隠していることになる。
「そもそも人間に興味ないだろ」
明後日の方を向きながら、忍が言った。
「ないけど、しーちゃんには興味ある」
「どういう意味だよ」
人間に興味のない女に興味を持たれるとは、すなわち忍が人間ではない、と言っているも同じだ。
「学部時代、しーちゃんは動物になんて一ミリも興味ありません、って顔してたでしょ。でもね、しーちゃんには誰よりも深い猛禽愛が眠ってると思ったの。私の勘は当たったね。今はフクロウの匂いでいっぱいだよ」
カヲルはやけに幸福そうな顔で、くんくんと匂いを嗅いだ。
忍から梟の匂いがするのは当たり前だ。カヲルから押し付けられたメンフクロウの雛の世話をするうち、匂いが染みついたのだろう。
「まあ、ズーイを飼ってるからな」
「ズーイちゃんは元気に育ってますか。えらい、えらい」
カヲルによしよし、と頭を撫でられた。これ見よがしの子供扱いがウザったくてしょうがない。こんなのは、ただの空元気だ。
「無理すんなよ、カヲル」
忍が素っ気なく言うと、カヲルの涙腺が決壊した。助かる見込みのない保護犬の前に跪き、嗚咽交じりに泣きじゃくった。
獣医になる人間は、動物の命を助けたくて獣医になる。
さして動物に興味もなく、たんに父が獣医であった、という成り行きで獣医の道に進んだ忍が例外的なだけで、目の前で命が尽きようとする動物がいれば心が痛む。
助けたくても助けられない無力さは、きっと一生付いて回る。
仕事に慣れれば、心は痛まなくなるのだろうか。
それは例えば、父のように。
冷血そのものの父のように。
「泣いていいよ、カヲル」
まだ心を失くしてはいない、若い獣医の背中にそっと触れる。
カヲルはただただ泣き続けた。
「この子、名前は?」
「ドージくん」
カヲルがしゃくり上げるように言った。
そう呼びたいなら、そう呼んだらいい。
お迎えが近いのか、保護犬は身動ぎさえしない。全身焼け爛れた痛ましい姿には、忍ですら同情してしまう。
「気が済むまで傍にいてやりな」
涙をごしごしと拭い、カヲルが吹っ切れたように言った。
「しーちゃんは優しいね」
「ただの偽善だよ」