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【つぶやき】大袈裟な愛で小さなことを。

人には、大きい死と小さい死が存在するという話をニュースで耳にしました。

大きい死とは、肉体が死ぬことへの恐れ、
小さい死とは、失恋や失業などの喪失体験。


つまり、
行きたい学校に行けず、就きたい地位に就けず、築きたい財産を築けず、好きな相手と親密になれない、といった苦しみ。

この大小の苦しみに対し必要なことは、苦痛の緩和をするターミナル・ケアであるという内容でした。

どうしたらこの苦痛を緩和することができるのか、、noteでぽつりと。つぶやきたいと思います。

こんばんは🌕文月ノベルです。


◇敬老の日に欲しいもの一位は、「会話」

 私は16歳の時、ボランティアで訪れていた日本赤 十字病院において薫さんという白髪の患者さんに出会いました。

 今でも時々思い出す、大好きな女性です。

 彼女の放つ、ひまわりのような温かい言葉の虜になった私は、ボランティアを忘れ、毎日のように病院に通い、薫さんと話すようになっていました。

 そんなある日、私は薫さんの鏡の裏に貼ってあるお孫さんとの写真を見つけます。

「私の最大の楽しみはね、孫と話す時間なの。
 そのために今を必死に生きるのよ」  


 そのとき、朝日新聞に掲載されていた敬老の日に 欲しいものランキングの一位が、「会話」であったことを思い出しました。

 死ぬという期限を知った患者さんだからこそ、死を前向きに受け止め、生きることの意味を自分なりに導いていたのです。

 お孫さんの写真を眺めながら、しわをくしゃっと幸せそうな笑顔でそう語る薫さんの顔に、迷いや不安は少しも見当たりませんでした。。。

 死ぬことを恐怖で埋め尽くしてしまう人がいる一方、「死ぬまでは生きる」と語った幸せそうな薫さんから、死への不安を打ち消す物語の提案をされたような気がしたのです。

◇大袈裟な愛で小さなことを

もしも、

大きい死とは、肉体が死ぬことへの恐れ、
小さい死とは、失恋や失業などの喪失体験。

が正であるとした場合。

どちらの死に対しても、救いを見出せることは、大切な人と関わっていると実感できる"何か"ではないでしょうか。

それは、会話であり、メールであり、電話であり、おそらく、ハグやキスである、人の温もりです。

誰かからふとした拍子にかけられた嬉しい言葉や優しい言葉は、たとえどんなに簡単な言葉でも、
ずっとずっと、心にこだまします。

昔、母親から抱きしめられたあのあたたかさも、
ずっと、心にこだまします。

悲しみから人々みんなを救うだなんて大袈裟なことは、きっと、かの世界的に有名なトムクルーズやスティービーワンダーにだってできないけれど、大袈裟なほどの愛で小さな言葉をかけることは、ちっぽけな私にだって、できると思うのです。

そういえば、もうすぐ、クリスマスですね。

ちょっとした余分なことを誰かのためにしたり、街中が黄金のライトであたたかく照らされたり、子どもたちがモミの木に願いを込めたり、優しい時間が流れるシーズンだなあ、なにかわたしにもできることがあるかなあ。

と、取り留めのない話を、
金曜晩に失礼しました...(*´-`)

来週ですが、ちょっと足早に。
メリークリスマス🎄

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