母の命日
おはよう、こんにちは、こんばんは〜makoです。
前回の記事から4か月も経ってしまいました。
春になって身体が少し動ける様になって、やりたい事をやり始めたらnoteを書く頃には疲れて寝ちゃう🤣って事が増えて、気づいたら、こんなに時間が経ってた!
周りの人達からも続きはどうなってんの?って言われてたんだけど〜なかなか書けず…。
そうかぁ、いつも夜書くから疲れてる。
夏で外は暑いから朝とか昼に書けば良いんだ!って事でnote再開?
時間に余裕がある時に書いて行こうと思います。
8月1日
7回目の母の命日。
振り返ると早いな。
以前にも書いたけど、母は長崎の五島列島出身。
こちらには墓もないし、生前は海にでも撒いてくれと言われてたので海に散骨しました。
母が亡くなった時、娘は高1。
今は社会人。
時の流れを感じます。
今回は、前回の続きではなく、母を看取った時の話を書こうと思います。
母は、どちらかと言うと自由に生きた人でした。
幼い頃から母に対する感情は、決して良い物ではなかった。
それは今までにも記事にして来ましたね。
まだ記事にしてないけど、母に振り回される事が多かった。
母に対する負の感情。
どれだけ悔しくて泣いたか。
憎しみが湧き上がる。
でも愛してた。
多分、お互いそう思っていたでしょう。
エゴのぶつかり合い。
母親なんだから、こうして当たり前。
娘なんだから、こうして当たり前。
だから、些細な事でぶつかり合う。
似た物同士だったんだろう。
2016年のGW母から電話。
自営で飲食店を営む私はGWは忙しくてんてこ舞い。
具合が悪くて…。
分かった。店が終わったら行くよ。
母は滅多に電話して来る人ではなかったので、相当具合が悪いんだろうと、自宅から20分車遠走らせた。
夜中だった事もあって、その日は様子を見に行く感じて終わった。
どうした?
気持ち悪くて食べた物をもどしてしまう。
とりあえず今は落ち着いたから大丈夫。
じゃ、明日にでも病院行こう。
そう言った後、母は寝るから帰んな。と言うので心配しながらも家へ戻った。
翌日、実家へ来たら母の仕事で一緒だったおじさんが来ていた。
母は、そのおじさんにも電話していた。
マコちゃん俺が病院に連れて行くから大丈夫だよ。
そう言われて私は帰らされた。
母とおじさんはひとり者同士の信頼関係みたいだった。
近くの町医者で薬をもらい飲んでいても症状が良くならず、又違う病院へ。
そこで、肺がんの疑いがあるからと大学病院へ紹介状を出された。
ほんの数日くらいで母は歩くのもままならない感じになっていた。
大学病院へ行くのに行き帰りだけ旦那にお願いして、おじさんと私と病院へ。
色んな検査をし私だけ診察室に呼ばれた。
先生は淡々と、余命数週間と告げた。
えっ?
何言ってるの先生?
数週間って何?
数ヶ月とかじゃなく数週間?
動揺が隠せなく受け入れられず涙が溢れた。
このまま入院して亡くなるか、家で看取るか?と言われて、家で看取ります。と即答した。
その場合、違う病院にお願いして下さいと。
実家より自宅に近い病院へ紹介状をもらった。
診察室から出る前に、中待ちで自分を落ち着かせ涙を拭き普通の顔で母の元へ。
なんだって?
私は死ぬって?
母は私に言った。
私は咄嗟に嘘を付いた。
肺がんの疑いあるけど、今は体力ないから細胞とか取って調べらんないんだって。
だから体力が戻った時に検査すると伝えた。
入院するの?
しないよ。
自宅療養するらしいから明日は手続きで、違う病院に行くよ。
そうなんだ。
母は入院しないって聞いて安心した。
とにかく病院嫌い。
自宅なら安心と思っていた。
翌日、紹介された病院へ。
そこでも検査して、自宅での介護の手続きをした。
どうやら脳転移していて、場所が悪く手術も出来ないと言われた。
胃は綺麗だけど、吐く症状は脳転移が原因だと。
ここまで4軒の病院を回った。
母が具合が悪くて電話して来てから1か月も経たない内に、余命数週間の宣告。
どう受け止めて良いのか?
家族に母の症状を伝え、家で介護することを理解してもらい承諾を得た。
突然の出来事で、店も困るだろう。
でも後悔したくない。
私のわがままを聞き入れてくれた旦那や娘には今でも感謝している。
6月1日から介護が始まった。
おじさんには、本当の事は伝えてない。
当分は一緒に介護するよ。と言ってくれて心強かった。
毎日、1時間程看護師さんが来て点滴をし身体を拭いてくれる。
もう寝たきりになっていた。
母は食べるが、すぐに戻す。
そんな事が続く。
でも、体力を戻さなきゃ!と又食べる。
おむつを母の所に敷き戻しても良い様にした。
寝る時間がまちまちなので、おじさんと交代しながら診ていた。
何故か、最初の頃、母は私にはおむつを変えられるのを嫌がった。
おむつを変える時はおじさんを呼ぶ。
何の抵抗だったのか?
暫くして、おじさんは娘に帰って来いと言われて静岡の自宅へ戻った。
母は私と2人になったので、仕方なくおむつを私に替えさせる。
お腹が空くと、ボウルを孫の手で鳴らしピヨピヨと口をパクパクさせて私を笑わせる🤣
まるで子供の様に。
母とくだらない会話をし、庭の花が咲いたよと言っては花を飾った。
おじさんは、気になるからと2、3日で戻って来た。
少しクセのあるおじさん、私は正直良くは思って居なかったが、母が良いのなら良しとしよう。
こうやって、一緒に母の介護をしてくれるのだから。
痛い痛い…。寒い…。
6月で少し暑くなった時期なのに暖房を入れた。
母は身体の左半分麻痺し動けなくなった。
この頃から少し言動もおかしくなり始めた。
私の着てるTシャツに書かれた英単語の文字を見て、あんたいつハワイに行って来た?等と訳の分からない事も言い出した。
先生は、脳腫瘍が悪さして変な事も言うけど気にしない様に私に告げた。
看護師さんは毎日違う人が来る。
良い人もいれば、どうなの?と思う人も中にはいた。
余命数週間。
なんとか1か月過ぎた。
おじさんが居る時は、たまに自宅へ戻る。
旦那も娘も来てくれて心強かったが申し訳ない気持ちにもなった。
娘も学校から帰ってから店の手伝いして家事もする。
きっと大変だっただろう。
でも振り返ってみると、この時期成長した。
旦那は全ての費用を愚痴も言わず出してくれた。
家族には本当に感謝しかない。
もちろん癖のあるおじさんにも感謝。
皆が母の為に動いていた。
母はぽつりと、私は幸せ者だと言う。
そうだよ、お母さん幸せ者だよ。と私は笑う。
おじさんは静岡と伊豆を行ったり来たりしていた。
暫く戻れないからと言うので、看護師さんが1人では大変だからと入院を進めて来た。
自宅近くなので、一時入院をする事になった。
私は自宅から数分の病院へ毎日通った。
だが、おむつもぱんぱんになっても替えて貰えず、私がやりますとおむつを貰い替えた。
なんだろ?
数値しか診てない…。
こんな所には、やはり安心して置いておけない。
そう思い、やはり自宅へ連れて帰ります。
と言ったが、なかなか出してもらえなかった。
モヤモヤしながら1週間程の入院をして自宅へ連れて戻った。
この頃、食べる事も出来なくなって来て母の身体は痩せ細っていた。
退院前に痰を取る指導を受け、自ら母の鼻からチューブを入れ痰を取り身体を拭きおむつ替えをした。
食べてなくても便が出る。
でも自分で排出できず。私は指を入れ便を出す。
寝返りも出来ないので身体を動かす。
毎日、数時間マッサージ。
お願い、まだ死なないで。
そんな気持ちだった。
あんなに憎み嫌っていた母なのに、愛おしく思った。
亡くなる数日前には会話もままならない。
呼吸数も少ない。
それでも、くだらない事を母に話しかけた。
そんなある日、バン!と凄い音が窓からした。
何?と思って窓を開けて見たら、スズメが窓に激突して痙攣し動かなくなった。
えっ!
どう言う事?
私は庭に穴を掘りスズメを埋めて供養した。
何だったんだろう?
そんな事ある?
不思議に思った。
その話を母に話た。もう母は意識はなかった。
8月1日
その日は、お祭りの日。
この辺りではお盆で1日、2日、3日と川沿いにお祭りで花火大会がある。
店も忙しい。
なのに、旦那さんと娘が夕方来た。
店を開ける1時間前。4時頃。
お母さんパパと娘も来たよ。と母の手を握り話掛けた。
もう既に意識も無く反応もなかった母は私の手を強い力で握り締めた。
私は涙が溢れ出し、声もなく泣いた。
意識はないけど、聞こえてんだ。
お母さん。
お母さん。
お母さん。
聞こえてる?
もう店に戻って。と、2人を送り出した。
何故か、ソワソワする。
トイレへ10分起きに行きたくなる。
もう時間がないのだろうと思った。
そんな時、弟から電話。
話ながら母を見ていた。
弱かった呼吸がない?
えっ!
慌てて電話を切って、母の心臓の音を確認し呼吸も確認した。
母は弟との電話の最中に息を引き取った。
旦那と娘が帰ってから2時間後。
お疲れ様でした。と母に声を掛けて顔を撫でた。
痩せてはいたが、とても綺麗だった。
お母さん、ありがとう。
こんな風に母と関わった事がなかった。
余命宣告されてから母との時間。
とても貴重だった。
亡くなる寸前の弟からの電話。
きっと母が電話させたのだろう。
あのスズメは、身代わりに1日母に命を与えてくれたのだろう。
私は今、病気になった事で母を看取った実家に暮らす。
まだここに居る様だ。
まだ2階にある母の物は手を付けずそのまま。
もうそろそろ片付けないと。
実父にも、母が亡くなってすぐに連絡した。
父もガンを患っていた。
だが、父も息子と(父方の弟)孫と3人で駆けつけてくれた。
父も歩くのに時間を掛けながら家の中へ。
棺の中を覗きながら棺を叩き、泣いた。
お父さん、来てくれてありがとう。
そう言って父をハグした。
父もガリガリだった。
父とは一緒に暮らした事もない。
だけど、とても愛おしく思った。
翌年、父も亡くなった。
母が亡くなって翌月、母の妹も亡くなった。
喧嘩していた姉妹。近くなのに、会う事もなかった。
母が亡くなった事を知った母の妹。
母が亡くなってから入院してる叔母(母の妹)に会いに行った。そして、数日後母の妹も亡くなった。
noteで、母の妹、実父の事にも触れて来た。
こうやって皆亡くなってしまったが、私の中では生きている。
良い思い出も嫌な思い出も沢山あるけど、感謝をしたい。
お母さん、お父さん、叔母さん、ありがとう。
母と母の妹は一緒に海の散骨した。
喧嘩してるかな?
もう仲良くやってるかな?
又、来年も海参りするよ。
※昨日、通院日でした。
やっとステロイドから解放!
完治ですか?と先生に言ってみたが、完治とは言わず🤣
当分、様子見ますってさ。
いや〜もう完治だろう?この数値。
と思うけど?
ま、良いや〜
薬飲まなくても良くなってるんだし。
一度は死ぬんだろうって思ってたから、与えられた命を全うしましょう。
死ぬまで生きてるんだから🤣
長々と書いてしまった。
読んでくれてありがとう。
自愛からの慈愛
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?