深刻な、子どもの「余暇」の問題
私は中高の教員免許持ち、
学生時代のアルバイトは個別塾講と家庭教師。
現職は幼児教育関係。
教育にずっと関わってきた私が思うこと、それは
「現代の子どもは、勉強をしすぎだ」ということである。
小中高生の予定は詰め込まれすぎている
大学時代のアルバイト先の塾は15時から21時まで勤務できた。だいたい18時ごろに生徒がいっぱいになり、受験シーズンになると3コマ連続で受講する生徒もいる。
年間で見ると夏期講習から全体の生徒数は爆増、だいたい12月くらいまで増え続ける。
最近は小学生から通う児童も増えている。
中高生だと、部活を引退するのが運動部は夏、文化部だと秋が多い。引退までの間、生徒はどのような生活を送っているのかというと
〜15:00学校の授業
〜17:30部活
18:00〜塾の授業
21時に帰る生徒もいる。そこから学校の課題。
1日何時間机に向かえばいいのだろう。
大人は1日8時間程度(ないしそれ以上)働くが、それよりも長い時間勉強している生徒は多いのではないだろうか。
「学校の授業がつまらない」一因?
学習塾の授業では、塾で購入したテキストの内容をなぞっていく。
結局は定期テストやその先の受験が目標なので、だいたい学校の授業スピードと合わせてやっていくことになる。
しかし、「予習」とかいうよくわからない文化が私の勤務していた塾にはあった。
「授業の先取りによって、学校の授業の時点でその単元の理解度が完璧になる」という。
私はその仕組みが心底嫌いだった。
もし本当にそうだとしたら、学校の授業に何の意味を持たせるのか。生徒は貴重な若い時間に、同じ話を2回も聞くことになる。
そうやって、勉強に縛られる時間が長くなる。
もちろん、学校の教師と生徒は他人同士。合う、合わないもあるだろう。同じ内容だろうが魅力的な授業だと感じさせる教師も中にはいるだろう。
かく言う私も、母校の中学が教育困難校のため塾での勉強をメインにしていた。
そんな私ですら、危機感を覚えている。
私が塾に通ったのは「学校が教育を放棄していたから」であり、学校にきちんとした授業をする先生がいれば通う必要などなかったのではと思う。
課金してまで2回も同じことを聞く意味とは?
しかも別テキストを買ってまですることか。
悲しい哉、これが学力中間層の生徒に多い授業形態だった。
学力が下層の生徒については、また話が変わってくる。
そういう生徒には、自分の塾は無理にテキストを買わせなかった。
定着がゆっくりな生徒は、いきなり色々な形式の問題を出されると混乱することが多い。テキストを分散させて出題パターンを体に叩き込むより、学校の教科書を使って根気よく教えた方が生徒も安心する。
もちろん、成績上位の生徒には、問題の数をこなすためにどんどん演習を積んで、通っている学校で習う範囲外のレベルまで到達する生徒もいる。
1クラス何十名も抱えている学校では、全員の目標のために等しく答える授業を展開するのは困難。
学校で補えない部分を塾でカバーするのは、うまい使い方だなと思う。
塾は使い方次第で学習効果を生む。逆に「学校の授業と同じことを2回しているだけ」になってしまうこともある。
そんなことを放課後に複数コマ行って、勉強嫌いの子どもが勉強を好きになるだろうか?
保護者の時間が足りない問題
私個人は、塾での「予習」では「学校での学習効果を高める」ことは難しいと感じている。
あくまで「補う」「積み重ねる」のが主要目的だと。
しかし、この「予習」スタンスの塾が保護者からクレームを受けたことは一切ない。なんなら質問もない。
面談すると、「我が子がいまどのように学んでいるのか」に無関心な親が如何に多いか実感する。
彼らが関心を示すのはただ結果について。
塾に入ってから偏差値はどのくらい上がったか?志望校の判定はどのくらいか?
そんなことを聞いてくるばかりで、子どもの持っている教科書やテキストを開こうともしない。
自分の子どもにとってどんな学習が必要なのか、これをわかっていない親がほとんどである。
入塾面談などで「うちの塾はこういうスタンスでやっていますよ」と説明され同意するとき、そのやり方で絶対に成績が伸びると信じて疑わない。
ここが教育業界の曖昧な部分とつながる。成績が伸びないとき、「子どもの頑張りが足りない」ことに帰着できるからだ。
今どんな問題が出されているのか?社会は子どもの習得するべき知識として何を求めているのか?それは社会にどのように役立つのか?
自分の子どもはどこで躓いていて、子ども自身の目標のために何を必要としているのか?今どれだけ負荷がかかっているのか?
このようなことを子どもと対話しないまま一方的に塾に通わせることを決めて全てを丸投げしても、子どもの勉強嫌いはなおらない。
このようなことを少しでも知ろうとし、子どもと対話して一緒に学習計画を立てる親は、私の知る限りいなかった。
だが私も鬼ではない。
子どもと真の意味でコミュニケーションを取るには、現代の保護者の時間が足りなすぎるからだ。
8時間近くもしくはそれ以上の時間働いて、子どもを迎えに行くまでは延長保育を使ったり、塾に直行させたり。
職場の利益を上げるために8時間も気を張って働いたあと、子どもの栄養のことを考えて食事を出し、学校のプリントを見たり持ち物を揃えたり。明日も仕事に行くなら自分の身支度のことも考えなくてはならない。
これでは子どもの宿題を見る暇などなくて当然だ。
子どもを塾や外部の教育施設、習い事などに通わせることによって、保護者が自分の時間を創出している家庭は、意外と多いのではないだろうか。
そして幼児教育業界の人間がこのコロナ禍で結構言われることがある。おそらくそれ以降の教育課程も例外ではない。
「家族1人陽性なんですが、子どもは陰性なので預けて良いですよね?」
いやいやいや。良いわけないですよね?その行動によって、他の児童や職員まで危険に晒されるんですよ?
と言いたい(実際は「規則なので、、、」と言う)が、保護者はこれ以上仕事を休むのは、、、と言う。
家族のために働いているのに、病気の家族がいることで休むのも憚られる世の中。
学校の営業時間外や、自分が仕事の間だけでも子どもの教育をどこかに外注したくなっても仕方がない。
とりあえず「どこかに預けておけば、私の見えないところで危険な目に遭うことはないだろうし、無駄な時間は過ごさないだろうし安心」になるのである。
こうして考えて見ると、子どもたちの負荷を正しく認識できる人などほぼいない。「勉強をやりすぎだ」「拘束されすぎだ」とわかってくれる人が全然いないのだ。
子どもの「余暇」について考える時
私たちは、子どもの「余暇」について甘く見過ぎなところがある。
本棚の前であれこれ迷う時。友人たちと他愛もない話をするとき。テレビを見るとき。漫画を読んだり、ゲームをしたりするとき。
そんな学力に直接結びつかない(と思われる)時間を安直に「無駄だ」と認識して、しばしば「勉強しなさい!」と怒る親は少なくないと思う。
私自身も「家でゲームばかりしてるので」「家で全然勉強しないので」と言って、子どもを入塾させる親をたくさん見てきた。
でも声を大にして言いたい。
「お子さんは、学校で勉強しているんですよ」と。
「余暇」が何を創造するか。
自由な思想を巡らすとはどういうことか。
何かを考えることは、その先の原動力になる。行動するそのための準備の時間が、どれほど尊いものか。
新しいものを生み出し豊かな社会をつくるそのために、子どもたちの負荷、そして大人たちの負荷を、私たちは認識しなければならないし、訴えなければいけないのでは。
そんなことを思いながら、子どもたちの顔を見て仕事をする日々。