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花野井くんと恋の病

少女漫画をほとんど読んだことがない。
何度か読んだことがあったはずだが、何一つ思い出せないのだから多分心に響いていなかったんだと思う。

当たり前だ。大抵男はイケメンのスーパーマンで描かれる。
全員鼻筋がスッと通っている。幼少期から長い間、鼻の開始地点と目の高さが全く変わらず、洗濯バサミを挟んで抵抗したような人間にとって、感情移入しろなんて方が無理な話だ。

そんな僕は主題の漫画にハマった。現在6巻まで出てます。全部読んでます。

例によって男はイケメンだった。これまでの経験からすると、イケメンにはどことなく余裕がある。余裕があるからイケメンなのか、イケメンだから余裕があるのかは残念ながらわからない。
「鶏が先か卵が先か論争」と並んで結論が出ないと言われている。

ほぼ接点がないのにイケメンが急に告白してくるというご都合主義的ストーリーぽいのだが、男の方からどこか必死さと愛の重さが伝わってくる。

2時間近く前から女の子の登校を待っていたり、
ヘアピン一本探すために雪の積もった校庭を漁っていたり、
全教科のテスト対策ノートを作ってあげたり、

「君が笑ってくれるなら、死んだっていい」

なんて言っちゃうくらい圧倒的に愛が重すぎるのだ。多分イケメンじゃなかったら犯罪で、イケメンでも危ないくらいのレベルだと思う。

一方の女の子は恋を知らない。恋をするということがわからない。でも優柔不断ではなくて、きちんと意見交換して納得した答えを出そうとするし、相手のために怒ることもできる。そして相手に何かを与えたい、相手にされたことはきちんと返したいと思う、当たり前のことを当たり前にできる女の子だ。


ここまで特徴を書いてみて思ったけど、そこまで奇抜で唯一無二の設定とも言えない。

結局漫画には絵と言葉とストーリーがあって、その中で何かを伝えられればいいんだと思う。村上春樹も言ってた。「小説は読者が自分を映す『鏡』」だって。漫画もそうだと僕は思う。

こんな顔でこんなこと言われたら最後まで読むしかなかった。僕には伝わった。
最強に可愛いんだもん。

主人公の女の子がとても好き。感情移入してしまう。


相手を好きになってしまったら、何もかもがよく見えてしまうことってある。
昔の言葉で言えば、「あばたもエクボ」って言葉。

そういえばこの前、好きだった子の横顔を見たとき、綺麗な肌に少しだけ小さなくぼみがあった。僕はそれをとてつもなく愛おしく感じて、知らないところで知らない時間を沢山積み重ねて生きてきたんだなあと思った。たった一個の肌のくぼみだけで想像は広大に広がった。

強い風に吹かれて髪が靡いておでこが見えた時も、なぜか嬉しかった。こんなに綺麗なおでこをした人はこの世にいないんじゃないかとさえ思った。


信じられないくらい相手のことを考えて行動する『花野井くんと恋の病』を読んでいて、ずっと思っていた。

僕はちゃんと大事なことを伝えられたのだろうか?
その矢印は相手に向いているようでその実、自分に向いていなかったか?


スタンダール曰く、人を好きになったときに世界のすべてが愛おしくなるような感覚、そして好きな相手の良いところだけを見つけ、拡大解釈していく感覚を『結晶作用』というらしい。

僕の恋はただの『結晶作用』だったのだろうか。
夜中の川辺に浮かぶ月や世界を飲み込むような茜色の夕日は、恋をしたから見れた美化された幻想だったのだろうか。

「恋に恋する」といった言葉は若者に対してよく使われる気がして、どちらかといえば本物の恋や愛を知らないみたいなマイナスのニュアンスで使われることが多い。

でもそれってそんなに悪いことか?
「恋に恋する」ってつまり『結晶作用』のことだろう。

誰かの良し悪しもすべてひっくるめて好きになれて、世界のすべてが愛おしくなるのなら、


そんなに素晴らしいことってないんじゃないかなって思うよ。

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