カネコアヤノ、感受性の筋トレ
「ひとは30代から新しい音楽を聴かなくなり、それまでに好きになった音楽のみを繰り返し聞くようになる」。ネットで聞いたことがある言葉だ。
私は今25歳なので、音楽がインプットできる時間が終わるまで、あと5年。もしあの通説が本当なのだとしたら、その前にカネコアヤノの曲を知れて本当に良かった。
先週、いよいよカネコアヤノのライブに行った。初めてのライブハウスだ、zeppだ。学生の時はお金的にも勇気的にもチャンスを掴めなかったけど、有給をとって新幹線に乗って、もちろんチケットもゲットしている。多少は大人になったと胸を張れるのではなかろうか。
カネコアヤノのライブは、それはそれは素晴らしかった。一度だって歌手になりたいと思ったことのない私でも、あんなふうに伸びやかに歌えたら。思いっきり言葉を放てたら、と願っていてもたってもいられずに、叫びたくなってしまうくらいに。
彼女の声が特別なのはいうまでもないが、音楽とカネコアヤノ自身のコネクション自体を表しているかのような、気迫を感じる演奏。
すごいなあ、かっこいいな、ああなりたいな、と思わずにはいられない立ち居振る舞い。堂々としていて、剥き出しの魂を見ているような御姿でありました。
そして帰りの夜道を歩きながら、ネコアヤノの曲を初めて聞いたのは22歳ごろ(あれはコロナ禍だった)だったことを思い出した。
中学の3年間、高校の3年間はあれほど長く感じていたのに、25歳から振り返る3年前はつい最近のことのように思えるんだった。
正直いって、最近は学生の時よりも日々が平穏で、時間がすんなり流れていく。あまり怒らなくなった、あまり悲しまなくなった。もしかしたら、新しいことも受け流しやすくなっているのかも知れない。
カネコアヤノの曲に出会ってからのあっという間の3年と、「30代以降は新しい音楽〜」説が無関係とは思えなくなってくる。
これは感受性の衰えなのでは?
時間の感じ方、音楽や諸々の新しいものへの感じ方が、このまま歳を重ねるごとにゆるやかに、のんびりに、ボンヤリになっていくんではないだろうか?
こわいことだけれど、私はあとどれくらい、未知の音楽に触れられるんだろう。あとどれだけ未知の文章に、ひとに、カルチャーに、思想に触れて、それを素直に感受できるんだろう…?
世の中にはまだまだ私が知らない面白いこと、可笑しいこと、楽しいこと、心地よいことがたくさんあるのに。しかも若い時よりもお金的にも機会的にも多少の余裕が増えたのに、肝心の私本体の感受性が衰えるとは、何事。
そんなの嫌嫌。「30代から新しい音楽を聴かなくなる」これが真実だったとしても、どうにか私の中の感受性をやわらかく、しなやかに保っていたい。
似たようなことで、「社会人になると本が読めなくなる」という話もあるけれど、私は今のところ、学生の時よりも本が読めている。
貧乏学生の時に比べて、本が買えるようになったというのも大きいんだけれど、一回やめたら復帰できない筋トレみたいに思っているところもある。
感受性全般に対しても、一度新しいことにびびったり、億劫になったりして、下げてしまった腰を上げるのはなかなか難しいような気がしている。
この予感が当たるのが少しこわくて、私は今日も本を読むんだけれど、皆様はどうだろうか。
感受性の筋トレしてますか。