「母親になって後悔してる」のは不穏か?
『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト)を読んでから、ずっと胸がざわざわしている。
太宰を読めばその先一週間がくっと落ち込み、漱石を読めば旧仮名遣いになってしまうほど読書に影響される私だが、今回はそうではなかった。ただただ、ひたすらに困惑していたんである。
『母親になって後悔してる』は、さまざまなバックグラウンドを持つ女性たちを調査対象としたレポートのような一冊だ。
「母親になったことを後悔していますか?」という質問を核にして、母親になった自身を振り返るような聞き取りを実施。「母親になったことの後悔」を軸に、まるで万華鏡のような女性たちの人生の複雑さが展開する。
そして話が展開するにつれて、女性たちは自分の気持ちを正直に言葉にしていく。
そのうちにわかってくるのは「母親になって後悔してる」と言う女性たちは、みんな(本当に全員)、サイコパスだったり、冷淡なひとではないということ。どこにでもいそうな、私と共通の話題もたくさんあるだろうひとたちだった。
つまり、私の母や、叔母や、従姉妹や、義姉や、おばあちゃん、学校の先生、職場の先輩のように。
彼女たちは、今この世に存在している自分の子供のことを愛しながらも、母親になった自分自身を後悔している。この気持ちが両立するというのは、なんとなく私にはイメージできるんだった。
私自身、子供を育てる生活に憧れはあるけれども、自分に「母親」は似合わないと思っている。こういう時に考える「母親」というのは、第一には私自身の母の真面目さ、勤勉さ、献身であり、第二に祖母のスーパーウーマンさ、自己中心さ、奔放さである。
「母親」というと、みんな誰かの子供なのだから独自の、しかも鮮明なイメージがあるのではないかと思う。皆さんはどんな母親のイメージを持っているだろうか。
本書では、いわゆる良妻賢母的な母親像だけでなく、昨今の仕事もするし育児もするスーパーウーマン的な母親像など、さまざまな母親像を検証。
そして実際に母親になったさまざまな立場の女性のエピソードがあって、「母親ってなんだっけ」となるくらい、世の中には多様な母について書かれている。
つまり、本書を読み終わったものだけが味わえるデトックスなんである。
「あれ、母親ってなんだっけ」と途方に暮れる感覚は。
私たちは誰かの子どもであり、母親のイメージを個別具体的に持ちすぎているからこそ、母親という名詞性と、母であるそのひとの固有名詞性を分離するのがむずかしい。
だから「母親になって後悔してる」と言われれば、ぎょっとしてしまうし、自分もそうだったらどうしよう、と不安になる。自分が親になるのだとしたら「良い母親」でいたいと思ってしまう。
けれども、本来、母親っていうのは女の親というだけのことで、そこに家事や育児や、自己犠牲度は関係ないよね、というふうに、母親という言葉をほぐしていくのが本書だった。
そうしてやっぱり「母親ってなんだっけ」と呆然とした気持ちで、だだっ広い荒野に立ち尽くしたような気持ちになるんだけど、別に悪い心地じゃない。
もし母になるとしたら「良き母」になれるよう自分を矯正していかなければと考えていた私にとっては、むしろお風呂に入ったように、さっぱりした気持ちになれたんだった。みんな母親がどういうことかわからないでやってるんだな、という開放感があった。
そもそも、ぼんやりとした「正しい母」「良い母」のイメージを信じきっている私たちを、傲慢だと筆者は考えているかもしれない。
これからどういう自分でいたいのか、その時に親になってみたいのか、なりたくないのか、親という立場の自分はどうありたいのか、は結局のところ、自分自身で考えなければいけない。
たぶん、母親に限らず、色々な言葉(例えば愛とか友情とか)がこれまで生きてきた先人たちの手垢に塗れて、手垢の雪だるまで原型がわからない状態として、私たちが生まれた瞬間からそばにある。
そうした言葉をひとつずつ学んで、使うようになって今の私たちがあるんだけれど、それにまた、自分の手垢をまぶして使ってもいいんだと思う。
今のトレンドの意味だけじゃなくて、自分がどうありたいかで、言葉の意味を捉え直して、使っていく。それは、本当に、本当にむずかしいんだけれど、やらないと自分の周りの状況は変わらないのも確かなんである。
だから今日からはもっと、手垢をまぶして言葉を使ってこ、と思ったんだった。本当に、むずかしいけど。