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見た目コンプレックス

自分の見た目が別に好きじゃなかった。
誰もがそうかもしれないが、ご多分に漏れず私もそうだった。

高校の頃、いつも彼氏とお昼を食べている綺麗な女の子がいた。
当時椎名林檎に憧れていた私は、女友達と群れないその子がすごくかっこよく見え、アプローチして、少しずつ仲良くなっていった。
長い黒髪は、緩やかにウェーブがかかり、浅黒い肌とエキゾチックな顔立ちによく似合っていた。
好きな音楽はリップスライム(メジャーデビュー前だったので、田舎では誰も知らなかった)。背は小さくて、見上げてくる視線が鋭い。
男にも女にも媚びない雰囲気が、他の女の子と違っていて、好きだった。

一緒にハーゲンダッツを食べているとき、彼女が打ち明けてくれた。
「お金を貯めて、整形するんだ私」
聞いた私は驚きのあまり、言葉が出なかった。
「私は自分が大嫌い」
悔しそうな、吐き出すような言葉だった。
私がかっこいいと思っていた、彼女の容姿も、女友達と群れない姿勢も、
彼女の中では強烈なコンプレックスだったことに、その時初めて気づいた。
容易には口に出せないくらいに。

残酷なことだが、それから私と彼女は疎遠になってしまった。
自分のことが嫌いな人と付き合うのが、私には苦しかった。
あなたは美人だよ、かっこいいよ、という私の本心からの言葉も、口に出した途端上滑りし、彼女の心に何も響かないのもつらかった。

私のコンプレックスの一つは、細いことだった。
胃腸が弱く、子供の時からたくさん食べられなかった。
給食の時間が嫌いだった。完食指導も嫌いだった。
太った?という言葉は、気を使って人は言わないのに、どうして「痩せた?」という言葉は気楽に口にするのだろう。
久しぶりに会った人に、痩せた?大丈夫?などと言われるのが嫌だった。

福井の東尋坊を見に行った帰りに、駅に気の毒なほど痩せた女の人がいた。
病気なのかな?と私は思ったのだが、母が彼女を指して言った。
「あの人の二の腕、あなたみたいね」
18歳の夏だった。それから26歳になるまで、私は半袖を着れなくなった。
人が、そういう風に見ているのかと思うと怖かった。

38歳の今、半袖を着れているのは、結婚式の衣装の試着をしていた時の、ウェディングプランナーの女性の一言がきっかけだった。
「お客様は健康的に痩せているから、ドレスが映えますね!」
別にセールストークでもなんでもよかった。
その一言に、私は救われたのだ。

もしかしたら、コンプレックスなんて、ただのその人の心の持ちようなんじゃないかと私は思い始めた。
友達のコンプレックスが、私が聞いたらなんてことのない、むしろその子の魅力に感じるように、
私のコンプレックスも、気に病むようなことではないのではないか。

整形を否定するつもりは別にない。
あれは絶対にめちゃめちゃ痛くて苦しいものだから、
むしろ決断して実行した人を私は尊敬する。
メスを入れたそのあとに、その人が自分を愛する人生を送れるなら、絶対にそのほうが良い。

でもきっと、私が見ている私の姿は歪んでいる。
コンプレックスという心の歪みが、そこだけをズームして、自分が見る自分の姿を歪んで見せている。


攻殻機動隊というアニメを見た。
電脳化が進んだ世界では、生身の人間のほうが珍しい。
ボディを機械化するときに、自分の体をカタログから選ぶというセリフがある。
もし、私が体だけを機械にして、脳をそのまま移植することになったら、どんな体にしようかなと考えた。
作中に、顔はオーダーメイドという選択肢もあると出ている。
顔を作る専門の業者がいるらしい。

すごく個人的なことで恥ずかしいのだが、女優のミラ・ジョヴォヴィッチが好みで、
あんな風になりたいと常々思っていたのだけれど、いざ好きに顔と体をカスタマイズするとなっても、
彼女に似せるという選択肢はないな!と即座に思った。

むしろ私は、私自身に似せて、機械の体を作る。
背丈も同じにしてもらう。顔もほぼ同じにしてもらう(ちょっと綺麗にするかも)
なぜなら、これが私だから。
朝、鏡を見たときにミラ・ジョヴォヴィッチが映るのは気持ち悪いし、
人に会っても、「誰?」となるのも気持ち悪い。

なーんだ、私って、私に愛着が結構あったんだなと思った。
なんだか、とても気が楽になった。
時間を経て、私はこのままで問題なし、と結論に行きついた、というだけの話です。


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