言葉の感覚
先日といっても1ヶ月ぐらい前だろうか、車の中でラジオを聴いていると、歌舞伎俳優とゲストの女性(名前覚えていない!)が宮澤賢治作の「黒ぶだう」という短編童話を朗読されているのを聴いた。昔読んだことがあるが、すっかり忘れていた。怖がりの仔牛と大胆な赤狐の話で、風景やひとつひとつの行動が細かく描かれていて、文章の模範のようなものだ。それを俳優二人が朗読する。さすが賢治さんもこんな風に朗読されるとは思ってもいなかっただろう。心洗われるひとときだった。たぶん、朗読されたお二人にとっても…。あらためて、美しさを感じる。
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そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。
「おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。」
犢(こうし)はこはさうに建物を見ながら云ひました。
「あすこの窓に誰かゐるぢゃないの。」
「どれ、何だい、びくびくするない。あれは公爵のセロだよ。だまってついておいで。」
「こはいなあ、僕は。」
「いゝったら、おまへはぐづだねえ。」
赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処(ところ)を通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。
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もっと前、たぶん40年ぐらい前にも、ラジオ放送で美しい日本語の朗読を聞いたことがある。知里幸惠の「アイヌ神謡集」からの物語だった。元はアイヌ語なのだが、本人によって訳された日本語が素朴で美しく響く。まさに謡われる物語という感じ。時が経っても、残っている美しさである。
「銀の滴降る降るまわりに,金の滴
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
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それよりまだもっと前、中学校に入学した記念に伯母から北欧の児童文学の書をいただいた。その中にアンデルセン童話があった。訳者は、矢崎源九郎氏。大人になって読み返すと、語りかけるような美しい日本語だ。他の人の翻訳もいくつか読んだことがあるけれど、個人的に矢崎氏を超える翻訳はないと思う。なかでも「人魚の姫」の物語は珠玉の逸品、子供の頃こんな美しい日本語で読んでいたのだと感激する。
海のおきへ、遠く遠く出ていきますと、水の色は、いちばん美しいヤグルマソウの花びらのようにまっさおになり、きれいにすきとおったガラスのように、すみきっています。けれども、そのあたりは、とてもとても深いので、どんなに長いいかり綱(づな)をおろしても、底まで届くようなことはありません。海の底から、水の面(おもて)まで届くためには、教会の塔(とう)を、いくつもいくつも、積みかさねなければならないでしょう。そういう深いところに、人魚たちは住んでいるのです。
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何年か前、Youtubeでこんな動画を見た。
"The Music Box"
柱を叩くと音が出る、それに夢中になり、ダンスと音楽がひとつになって行く。誰にでも分かる“物語”性のあるダンスだ。ダンサーはDaniel Cloud Campos。B-Boyと呼ばれていた。いわゆるBreak Danceという激しく動き回るダンサー。また、こんなダンスもしている。
"All Over Now" by Alice Russell
こちらの方は、音楽からインスピレーションを得て、踊っている感じだ。フリースタイルなので一見抽象的だが、私には、何か“物語”を感じる。好きなダンスである。
日本語にはDanceを表す言葉がふたつある。踊りと舞い。次のは、歴史、恋情、和歌、舞いの複雑に絡み合った、舞いである。
これは大河ドラマの一場面(私は観なかった、残念。注意、動画は削除される可能性もある。)、頼朝の前で、義経への恋慕を歌い舞う静御前(石原さとみ)。静かに歌い、優雅にしかも凛として舞う姿。これらの和歌には、本歌があり、歌自体が歴史を持っている。
吉野山 嶺の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな
(吉野山〜 の本歌は、古今和歌集の
みよしのの 山の白雪 ふみわけて 入りにし人の おとづれもせぬ
(しづやしづ〜 の本歌は、伊勢物語の
いにしへのしづのをだまきくりかへし むかしをいまになすよしもがな
これは、更に古今集の歌などから着想されたという。
感覚、インスピレーションは育てていくものだと思う。